あらえびすブログ

あらえびすのブログです。各プロジェクトや、日々のこと等情報発信。代表東出融の過去記事、Facebook発信のまとめもみることができます。

赤坂憲雄さんの辺境から始まるの著書第四章、仁平さんの災間の思考完成盤がアラエビスの活動だ!

今日から、アラエビスの活動が理解しやすい為の、叩き台に仁平氏の災間の思考を分割で転載しながら、アラエビスの活動をご説明して行きます。

あアラエビスが目指すのは僭越ながら、国の枠組みが外れる時に向けての移行期で民が創るべき新たな社会システムです。

分割からではなく、全体から自然界の増殖が目に見えて感じ取れる、人類のネオ縄文社会の雛型です。

今年いよいよサポーター会員千人を越え、神戸サラシャンティさんから始まった響命の流れで、大下先生も動いて下さり京都での講演会に向けて、本気で民中心にて住み良い社会雛型構築を共に目指すサポーターを三千名そして一万名をこの二年で何としても実現しなくては、震災だけではなく、きな臭い戦争や国家破綻に向かいそうな流れに抜かされてしまうからです。

災間なに未來を見据えて創るべき姿は、当たり前に普段から繋がる場の雛型の構築です。

3,11でも、神戸の震災でも、結果行政が先に動くと、又同じシステムを作り出し、結果二次三次の問題が出始めます。

孤独死やある意味強制的民への丸投げに近い帰村や原発再開や二重三重ローンや避難による家族崩壊など上げたらきりがないほどです。

更に都市部なるものと田舎なるものを、どんどん人情的にも経済的にも分割させ、国しか頼れないように仕向ける、旧態依然の専業政治家やその輩達が作る似非議会政治や似非民主主義には、今本気でNO!を突きつけないと、世界はまだまだ我々民を家畜化して、相も変わらず戦争で儲けて、短絡的な世界の展望に民を縛り付ける事で、生き残ろうとしているからです。

本当の自由には責任が付きまとい自らの行動力とアイディアを必要としますが、似非民主主義の自由では日本人は特に無関心の最悪な家畜化に流されてしまい、今を自由な世界と勘違いしてしまいます。

本当の自由とは、描き出し自らが責任を直接負いながら建てあげるモノ。

何故それが田舎からか?

システムが巨大過ぎず、どうにか市政なるモノはもう借金しか作り出せないと、民主体の自治区を創れる可能性が一番あるからです。

全国を歩き、ここなら何れ国という囲いをなくした、世界で始めての自治区の集団に作り替えれ、世界に雛型を創れるからです。

まさに里山資本主義とは、この事であったと、我ながら再確認致しました。

この人口四万七千の市は、今様々に色々な矛盾を顕に表し、まさにこれから豊かな自然を活かしながら、部落が直に日本中のサポーターと繋がりながら、市政はいらなかったと示せる絶好の場であり、その絶好の機会が訪れたように感じるからです。

雛型があれば、このシステムは全国に定着させれます。

民が安心して、最終的に国政はいらないし、無いほうが全てが同時に解決しながらうまく回ると、世界に気付いて頂き、何れは地球に国という境界線を無くせるからです。

境界線がなくなれば、戦争も経済戦争もありません。

その為には、普段から囲い込むような今の家族から会社や団体までを、風通しが良い自由な集団にしなくてはなりませんが、我々はネオ縄文雛型を目指すサポーターさんの中から、共に実際の活動をしようと越されてくる方々との、共同生活の実践でそのソフトウェアも、同時に構築して来ました。

だからこそ、雛型になる前から、全ての弱者の参加が必要でした。

それが僕らが考えた、oh!里ブロジェクトの起業という形でした。

シュタイナー教育のように全ての弱者が集まり、平たく思考を駆使すれば、それは何れ自分達がその弱者になっていくのですから、未來の可能性を構築する素晴らしいプロデューサーになります。

少なからず、何かに関しては全員が、弱者を人類は負わされています。

その弱者なるモノは、人だけでなく市場にのらない全ての放り投げられているモノ全てに繋がるのです。

だから、市場が放り投げたモノを繋げたら、お互いの活かし方が分かりだし、意外に簡単だと気付いて行きます。

それを僕らは、放ーるモン流儀 と呼んでいます。

起業とは市場に載らない人からモノで集団になり、社会福祉事業を自分達で予算も姿も生み出して、さっさと危険な匂いプンプンの国という境界線から居ながらにして出てしまう会社を、集団で立ち上げて行こうとしているのです。

起業家は、即ち社員であり、家族であり、投資家であり、消費者でもありますが、ここでは全てをシェアリングしますから、目標は一律五十万の月給ですが使わないので、寄付できます。

所得税払わない最低所得でも良ければそれで良し、いやいや現在それなりに旧態依然ではある市政にお世話になったと感じたら所得を三十万と自ら決めて旧態依然の国税に寄付感覚で税金を納めるもよしで、放棄した所得は自らが作り出すNPO銀行なる受け皿にに寄付します。

それは、未来型の起業を考える若者に、利息無しで投資します。

旧態依然の銀行や保険会社も結果はマスコミ同様に、戦争屋さんの子分。

そんな場からお金借りて、起業するも雛型が出来たら気付いて、目から鱗どころではなくなるでしょう。

名前も実はこの本に出逢い決まりました。

マークはファルコン、看板アニマルはシベリアミミズク。

NPOよいとり金行 です。

頭取は知的トム・クルーズS社長にお願いしたいでーす。

良い鳥 よいとり その通り よいとり金行!民の味方よいとり金行。

よいとりとは、東北の方言で、お互い様、持ちつ持たれつという意味です。


さてさて前置き長くなりましたが、この災間の思考は、はじめにと1,2,3の4部構成です。

毎日一部ずつ転載します。

今日は、はじめにを。



はじめに 災間に生きる
東日本大震災復興構想会議で議長をつとめた御厨貴は、東日本大震災によって「戦後が終わり[災後]が始まる」と述べた。
しかし将来の歴史家は、果たして今のこの時点を[災後]と記述するだろうか。
そうならばいいと思う。
だが我々を取り巻いているのは、近い将来、より大きなカタストロフィが来るかもしれないという不安ではないだろうか。
言い換えれば、将来の歴史家によって、今が「二つの災害に挟まれたつかの間の平時」=「災間期」と記述されうる不安である。

あの日から、頻発する余震のたびに、次なる瞬間は今かと身構えながら生きてきた。
報道される地震発生確率の無味乾燥な数字は、不気味な生々しさを帯びている。
そしてそれは、原子力発電所の水蒸気爆発に伴う国土の壊滅という決定的なカタストロフィへの不安と共にある。
脅威は外から来るだけではない。
放射能で汚染された食品が、不可視化された経路をたどり、いつの間にか体内に蓄積されているのではないか。
そんな、内部から徐々に蝕まれていく感覚も、この社会を引き裂いている。

これらの東日本大震災に起因する不安な気分は、別の不安共共振する。
2011年の後半は、ギリシャやイタリアの債務危機というニュースが社会を暗く包んだ。
それは、日本でもふくれあがった国債が暴落し、財政破綻に見舞われるという悪夢を想起させる。

勿論日本は、以前から、十分すぎるほどの問題を抱えてきた。
御厨のいう「戦後」には、日本型経営と性別役割分業に根差した標準型のライフコースに乗っている限り、生活上のリスクを極小化する仕組みがあった。
そんな「戦後」の大きな転換点は、阪神淡路大震災が発生した1995年である。
これ以降、そのような標準の堀崩しが進む。
長期不況とネオリベラリズムと総称される諸政策は、標準の外側をジワジワと広げ、生活の困難な人々をうみだしていった。
だが多くの人にとって、危機はまだ外側にあるものだった。
目をつぶろうと思えばつぶれた。
劣化する雇用と生活保障、歯止めがかからない少子化、亢進する高齢化、衰弱する地方、延々と続く不況、改善の為に残された時間が多くないないことは誰もが分かっているが、ダラダラと決定打も打てない。
いつか来るであろう厄災の先伸ばし。
東日本大震災は、その不安が突如目の前に具現化したかのように訪れた。
そして、想定していた以上のリスクが外側ではなく、自分の足下にあることに否応なく気付く。
自分が立つ大地が、いつの間にか薄い氷に変わっていたかのように。


だからといって、あの日から何かが大きく変わったわけでもない。
激甚的な被害があった被災地以外、変わらぬ日常が連綿と続いている。
どこか間延びした、袋小路に入り込んだような平凡な日常。
次の厄災は未だ起きていない。
だが「未だ」という言葉自体が、その確率的な到来をすでに含意している。
繰り返す3,11の日付は、震災の死者と関係を結び直し、かつてあった世界に思いを馳せさせる。
同時にそれは、3,11が、再び別の形で訪れうる事を、象徴的に予示する。
我々は「以後」ではなく「間」を生きている。
これを前提としていかなる事を考えられるか。


「災前」の思考と「災間」の思考

注釈 この後出て来るナオミクラインは、僕も山形に越してこの活動にかけるきっかけをくれた、ノンフィクション作家だか、彼女が調べ尽くした戦争屋さんの実態は、余りに酷く、映画以上のエグさの現実を暴いたが、やはりこれを表明し明文化しただけでは、更なる陰謀論イデオロギーを生むと感じより実際な活動こそが、世界を変えると知った反面教師的な作家である。


災間の思考は、厄災の回帰を前提に考える。
だがそれは、目前に迫る厄災の恐怖をバネにあらゆるものを変革しようとする構えー災前の思考ーとは異なる。
ナオミクラインによると、1970年代以降、市場開放、規制緩和、民営化を進めるネオリベラリズムは、惨事=厄災を利用しつつ一気呵成に、進められてきたという。
これまで積み重ねられてきた合意や規範が暴力と恐怖によって宙吊りにされ、例外状態の中で改革が進められる。
その結果、一時期は経済が上向くものの、貧富の格差が増大し社会不安が加速する。
かクラインはこれを「惨事資本主義」とよぶが、そこでのメッセージは、「この改革を受け入れないと、目の前に迫る、より大きな惨事=厄災に見舞われる」というものである。
この目の前に迫る危機という発想は、時に熱狂を招き寄せる。
「死を思う事により今ある生を輝かせる」というのは俗流の実存主義的な人生論に典型的なものだが、この種の気分は容易に決断主義と結び付く。
危機に断固立ち向かう強い意志への憧れ、その中で充実した生を燃やすことへの甘美な誘惑。
これは現在の日本では、災後の被災地以上に、遠く離れた大阪において極端な形で現れている。
災前の思考とは、一度きりのショック=荒治療を、断行することによって、一気に社会を変えていくことを欲望するものであり、その意味では革命の思考と同型だ。

災間の思考はこのような災前の思考とは異なる

注釈 アラエビスでは革命と覚命とを対比して、荒々しい革命では実は変えれないとうったえ、荒々しいエミシの荒戎を新しいエミシの新夷にして表現しているのです。


第一に、厄災が何度でも、回帰しうるということを前提にする。
その上で、それに耐えうる持続可能でしなやかな社会を構想することを求める。
つまり、一回の荒療治で乗り切れるものでなく、より根本的な体質改善が求められるのだ。
そこにはロマン主義的な革命契機が入り込む余地はない。
これまでも望ましいとされてきた事を、着実に積み上げていくというある意味平凡な事である。

例えば、我々の多くにとって今回の津波は想定外だった。
しかし三陸沿岸の漁村の人々は、常に災間を生きてきたと言える。
といっても、過去三陸を襲ってきた歴史的な津波のことだけを述べているのではない。
津波とはもっと無名的で、日常的なものなのだ。
陸前高田市の広田半島に住むある漁師によると、1993年から2011年までに五回の津波に襲われたという。
実に三年半に一度の割合である。
一メートルの津波であっても、牡蠣の養殖筏やワカメの養殖縄を壊すには十分であり、そのたびに設備の復旧が必要となる。
それらの津波被害に対する国の保障は、微々たるものだった為、養殖に携わる漁業従事者の中には三重四重ローンに苦しみ、廃業する人も多かった。
反面、そのような漁村の集落では、今回の大津波における犠牲者の割合は、相対的に小さかった。
繰返し訪れる津波と向き合いつつ生きる事によって、津波の大きさを見謝ることなく、津波襲来直前の潮の引き方が尋常ではなかったそうだ。
迅速に避難できていたことが、その背景にある。
一方で、強固な防波堤で小さな無名の津波をなかった事にしてきた地域にとってこそ、今回の津波は、想定外だったのだ。
第二に災間の思考は、個人に強さを求めない。
思えば1995年以降、社会変革の為に行われようとしていた事は無駄を省くという事だった。
無駄と名指しされてきたのは、雇用であり、地方の集落であり、公務員であり、社会資源であり、社会保障であった。
災前の思考では、破局を避ける為にという名目の下で、痛みを個々人に強いる。
社会資源や社会保障をギリギリまで削減し、それに耐えうる個人を求める。
だがそこで痛みが集中するのは、社会的に弱い立場におかれた人たちである。
厄災を避けるはずの取り組みが、それ自体、厄災になるという矛盾が生じる。

この矛盾を懐柔、弥縫するため、コストがかからない対応策が推奨される。
それが人々の繋がり、支えあいといった用語群である。
人々のアンペイドな活動を費用対効果の高い対処策と位置付けつつ推進されるのは、社会保障削減のように、国家がその責任を軽減しようとする時に、これまでも繰り返されたことだった。
今回の「絆」やそれに類した言葉が多様され、同時に避けられたのも、国の責任放棄と国民への転嫁という文脈で理解されたからという面もある。
1955年阪神淡路大震災が開発主義の果てに生じたとしたら、2011年の東日本大震災は、災前の思考のもとで進められてきたネオリベラリズムの果てに生じたと言える。
だが、誰もが弱者=被災者になり得ることを前提とする災間の思考においては、社会から無駄を極力削減し、個人にリスクを負わせるという発想は、逆に脆弱なものとなる。
絞りすぎた体が危険なのと同じように。
むしろ、社会に様々な溜めや隙間や無駄を作り、リスクを分散吸収させる事が重要になると思われる。
これまでと無駄とされてきたものの削減が、今回の東日本大震災でどのような帰結を生んだか、そして、回帰する3,11という認識のなかで、いかなる社会を目指していくべきなのか、仮説的に粗描していきたい。