やはり彼らがつくった政治では、民が真から求める世界は創れない。
命が後回しの経済これが問題ですね。
そして、民がまだまだ国に守ってもらえるとの、勘違い依存から出れないでいる。
だから、ヤッパリ国や団体から出れないでいる。
囲ってもらえる立ちいちから、所詮出る勇気がわかない。
何時までも出る勇気がわかない事を、誰かのせいにして自我に閉じ籠る。
世界中で当たり前な自由がドンドン奪われて、世界中の民が自由を求めているのに、要の日本人が僅かな一歩を踏み出さないで留まる。
地球全体が同時多発的に動かないと、改革は又々国家間という狭い戦いと搾取の罠にはまる。
支配者が支配するとき、一番に考えるのは、役割分担制。
日本という国を見てさえ、東北はひたすら様々に都市部に支える。
だから、アベノミクスでは、東北や田舎に新たな経済は生まれる筈もない。
このへんで、着飾って出掛ける場がないし、着飾って出掛ける場には面白味がない。
だから、都市部の生活の当たり前の外に、田舎の経済復興があるが、そもそも復興がおかしい。
何故なら、都市部に供給して潤っていた田舎への復興だから、都市部の価値が活かされる田舎だ。
それは田舎ではなく、日本中が都市部近郊のツマラナイ駅前経済。
だから、野生に入り込んで始めて自立が、見えてくる。
そこに家族が見えてくる。
先ずは経済を外して命優先のファミリーを体感する必要がある。
それをベースに創造する、新たな経済。
新たな地域再生。
だから、お山での様々に入り込んでみないと、何にも創造が生まれない。
それが露天風呂やらATVや犬ゾリで入る、独り占め感覚の冬の里山の奥山。
奥山にこそ、新しい生活が創造する経済の種が、転がっている。
まるで、特種なキノコを山で見つけれるような、創造の種だ。
だから、都市部の目利きでは、何にも見えない。
目利きを身に付ける体感こそが、唯一のツールだ。
体感こそがツールになると、野生が目覚める
すると命優先が凄く目覚める。
よーく見えてくる。
命優先の起業とはが、始めてわかり始める。
里山から奥山は、命優先の唯一の場。
命優先には、戦いがないのです。
連鎖しかない。
連鎖しあいなかがら、気付けば調和が生まれる。
こんな体感は、僕も此処に暮らし、この活動して始めて見えてきた。
だから、頭優先の都市部の価値では、見えてこない。
だから、東京近郊の駅前経済には、もう野生が芽吹き出している。
十二月クリスマスにやって来るフクロウさんも、国分寺に現れた野生の入り口。
そんな都市部の野生と、このどん詰まりが呼応する。
その連鎖が、新たな政治に変わるツールを創造する。
それさは、アソビから生まれる。
大人が子供に戻れた瞬間、山は甦る。
山は地球人類が、子供に戻って地球のお母さんである、お山の麓で遊ぶ事で様々な暮らしが実現すると言っている。
後は飛び込むかどうかなんだよ。
起業する内容さは、お山お母さんが教えてくれる。
そしてワザワザお母さんであるお山を征服する必要もないが解る。
だから、登山は征服ではない。
呼応なんです。
お山と一体になり、溶け込むだけ。
だから、美しい紅葉や厳しい噴火に、畏敬の念や畏怖の念に満たされるあなたが一番美しいのです。
自然界の写真は、カメラマンと言う人類の存在が、感動されているから美しいのであって、まるで人類から遠い存在の自然界が美しいのではない。
だから、里山に人類が居なくなった時に、お山お母さんは一気に淀み始めるのです。
家族とは、お山お母さんから始まる家族なんです。
昨日は宮城のお山家族さん逹との楽しいひととき、ありがとう皆さん、そしてありがとう繋いで育ててくれたお山お母さん。
今日もお母さんは、僕らに何かを伝えています。
この鷹さんも、お山の子供です。
こんな猛禽類の眼差しで、お山と共に更に呼応して生きたい。
そこから全てが始まるんだよ。
此処には選挙も意味をなさない。
枯れ葉1つ、人類には創れないんだから。