あらえびすブログ

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遂に来ました。朝二時間の雪掻きが。

この雪に付き合って、始めて伏流水に感謝が生まれます。

気象を自然界を味方につける。

これがエミシと日本人の合の子の証。

だから野生の境界線で身体を合わせる。

自然界にアイキを試みる。

それが命の重さを身に付けさせる。



北海道の一万年前の雪解け水の伏流水を預けられている、アイヌのドン、アシリレラさんの所。

さてアシリレラさんの写真集のこの題名は、意味が深い。

果たして、日本人の前からの魂の目的を果たそうと、ピュアな自分が解れば、Xときどき日本人といつも感じて生きれる。

今必要なのは、今の生まれた地域の範囲で、自分を捉えない事。

もっと大いなるモノに直接関わる存在であった事を、頭ではなく身体が思い出す事。

アイヌもエミシも場ではない。

場を固定したベースから抽出するのではなく、場を広げる。

どこまで?

どうせなら、始めから宇宙までが良いのでは。

これを、狭い場で捉え直し、又々場を広げて行くに人生短すぎる。

ならば始めから、宇宙にしてしまう。

毎日、毎分、毎秒僕らは、何かを選んでいる。

だから自分なんだけど、それを選ぶ時に自分と宇宙若しくは地球とが、呼応して選ぶ。

この地球や宇宙と、だから自然界と生きているが、アイヌでありエミシだ。

県や市や国は、実は歴史が短い。

支配者の都合で作られた。

だけど、その前に我々は元々宇宙人であり、地球人なんだから自分から自分を狭くしていた。

ましてや僕も五十半ばを越えて、新たな生活は体にこたえるけれど、理由づけしたらきりがない。

だから、今生で片付ける例題だ。

逃げたらきっと、もっともっと年を毎分とってから、来世で同じ問題に直面する。

きっと全員が、肉体をタシャに差し出せる愛の本質を、試される。

だから、例題の違いはあっても、行き着く先はエゴの処理。

僕の場合、多分何回も自然界の厳しさから、弥生の甘さに身をおいて、見ない振りを沢山してきたんだろう。

もう今生は、見ない振りをするわけにはいかない。

ここに興味をモタレル方の中で、大半が同じ例題に直面している。

若い方や、スボーツ選手やダンサーやセラピストは、弥生の世界でも身体性に普段から関わっているから、年齢に関係なくすんなり入るが、身体が後でにまわる四十代以上は、勝ち負けがない身体性に関わる時が少ないから、いつのまにか弥生に逃げ込む。

僕が尊敬する集団斑鳩工舎という、宮大工集団があるけど、憧れて入るが身体に身に付く間の体に染み付かない自分についていけなく、殆どが心が負けて出ていく。

若い方でも、五年は筋肉や骨が馴染まない。

弥生から縄文へは、骨格の変化が必須だ。

だからキツイのです。

だから身体ワークを成業にしていました。

先ずは骨格を縄文に進化させないと、肉体から離れて次元をあげる事も出来ない。

弥生から次元上昇はキツイ。

エゴの固まりだから。

エゴの固まりには、エゴの固まり身体が身に付く。

それぐらい生き方は、身体を作る。

代表は、顔が直ぐに強ばり、地に足がつかず足かすくむ。

つまりか逃げ腰だ。

だから縄文身体への扉を開き、勇気を持って飛び込むしかない。

これは、身体ワークでは身に付けれない。

スボーツ選手が大会で、心が折れなくなるように、現場でしか身に付かない。

しかし縄文の現場は、生活作業でが大会。

ただ雪掻きしているわけでなく、ドンドン連鎖の思考が生まれ、体が様々な知恵に気付いていく。

そこから新しいビジネスアイデアが湧く。

都市側弥生思考のアイデアとは全く違う。

だから政治の地方再生は、丸っきり肝がずれている。

そして、毎年様々な時期に自然界に出逢うから、応用が育つ。

だから植村直己さんがおっしゃるように、同じブリザードは一つもないのだ。

その度に、違うブリザードかに出逢う、違う自分を発見する。

これが いつも縄文人たまに日本人への道だ。