地球が向かう先に合わせて、地球から間借りしてる気分で、今こそ結ったり生きはじめましょ。
生きてる水を体に取り込み、体を巡る体液が生きて回り始めると、勢いが欲しい時は勢いがけれどゆったり流れたい時はゆったりと、それが自分のペースではなく地球のペースに自らを合わせて生きはじめるから不思議です。
効用等は先ずはあとづけだし、水が僕らに生き物を捕獲したように、問いかける。
僕ら水も生きてるんだから死ぬんだよ!!!だから出来るだけ僕ら自身も命を全うさせて、命を思いっきり活かしてあげてと、問いかけ始める。
仔犬を飼う、子猫を飼う、これは返品は出来ない。
刺身買ってきて、思った感じじゃないから、返品する。
これは、滅多にいないけれど、グローバル資本主義に慣れている僕らは無意識に、狩猟採集アニミズムな生きるの当たり前からかけはなれた。
そこに疑問符?を突きつける。
気づくまで待ってはいられないし、気づくは自立であり、だから自律が生まれるわけで、説得したりしてるうちに、説得しあうグループを構成するうちに、無意識に宗教的に又は戦闘的になる。
重要なのは、アナタは、グローバル資本主義の土俵で生きるか、アニミズムグローバル里山資本主義という縄文の感性を今にアート的に創造し実践して生きるか、宇宙の民が向かえに来るのをひたすら信じて霊性のみ高めようと受け身の人生をグルと待つか、グローバル資本主義の土俵でひたすら革命な改革を仕掛け続けるか、この4つが僕がみるキアスムY字の裂け目が今ドンドン多様化している。
アニミズムにとって、アラスカもシベリアもアフリカもアマゾンも、山形も東京も名古屋も大坂も関係がない。
あるのは、生き抜く材料である野性が、今そこにあるかないかだ
だから本当にシンプルだ。
僕で言えば、東京や新潟にお話会に出向いて、そこが自らの意識にアニミズム復権を誓う方々で、沸き上がると既にそこは野生化が始まっている。
だから震災後にも、思いっきり先ずは二たてに分かれる。
アニミズム的に悲しみから立ち上がり人生の冒険に出ようと覚悟する、アニミズムの野性がジワジワと身体にみなぎる方々と、相変わらず誰かのせいにして他者や国や技術進歩任せする方々やアホンションスピリチュアルに鎮座する方々に分かれりる。
最近この分かれ道が更に、スルメを裂くように分かれ始めた。
それが誰かの超上現象や技術よりも、地球がつくってくれる生きた水を飲み続ける為に、地球が求める野性からもう一度、ある意味根本から生き変え始めようとする方々と出逢うには、最高の地球関所がこの水の活動だったのだと気づきだした。
多分目標の三千人には、今までの割合で考えるならば一万人に体面でお会いして、始めて出逢う三千人なんでしょうが、裂け目が多様化してそちらに興味がわかない方々とはニアミスも少くなってきた事、即ち連鎖調和が見えるようにワカリ始めてきたから、後三千人に会えば間違いなく残りの二千人強には出逢うだろうと、感覚で確実に捉えていると、今朝は強く感じるのです。
開かれたこの三千人から始まるお山アニミズムアート方舟1号がスタートすれば、間違いなく野性の動物はついてくる。
当たり前だけど舟であるとは限らないノアの方舟。
波が山を越えない場で、大洋のようなドデカイ影響がない場で、同じく山の手であるならば、方舟になる。
無意識には、山の手線内も東京では間違いなくアニミズムな地です。
日本中のアニミズムを繋ぎ、世界のアニミズムを繋ぐ、これがアラエビスの仕事。
アニミズムには仕事と遊び、生きると死ぬ等の境界線がない。
だから生きるは遊びだ。
だから遊びが仕事。
伏流水汲むも、配るも飲むも、里山資本主義も、新しい社会の雛形創るも、冒険遊び仕事だ。