あらえびすブログ

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転載部分かけてました

出雲民族
平安時代に編まれた『延喜式』には、全国の神社名を記載した神名帳があるが、それを見ると、出雲の国にのみ他の国には記載のない韓国伊太氐(からくにいたて)神社という名の神社が六社もある。
 この『延喜式』の記述は、一時代前、大和朝廷の支配下に入る以前の出雲の姿を伝える記述として注目に値する。

 それによれば、記事が編纂された平安時代前期の時点で三社はすでに合祀されており、独立して神社を営んでいるのは三社だけとなっている。社殿が頽廃して祀る人間がいなくなると、その神社の神はたたり神になるためそれを避けるために合祀が行われる。この韓国伊太氐神社が前時代に隆盛していた神社であることが分かる。

 断片的な記述だが、この記述からは朝鮮半島との活発な交流に基づいて朝鮮民族倭人日本民族)ときには中国人(漢民族)が活動する、大和朝廷の支配下に入る以前のいわば多民族国家としての出雲の姿が浮かび上がる(注17)。

 出雲民族は、日本を生活の拠点としている朝鮮民族、いわゆる在日朝鮮人ではない。言語、名字・名前、生活様式など、民族学的には完全に日本民族である。

 出雲民族は、ローマ帝国による侵攻とそれに続くゲルマン民族の大移動により衰退しヨーロッパ大陸から一掃された後も大陸内に留まり現在まで独自の文化を守り続けている、フランス・ブルターニュ地方のケルト人とまったく同一であり、出雲弁(雲伯方言)の言語的位置は、スペイン・カタロニア地方で話されている言語、カタロニア語と同じ位置にある。カタロニア語はもともとイベリア半島の東部を本拠にして12Cに勃興し15C中頃に隆盛を迎えたアラゴン王国公用語であったが16C〜17Cにかけて、隣国であるカステリア王国が飛躍しアラゴン王国を併合すると、それに伴い、カステリア王国の公用語であるカスティリャ語スペイン語)がイベリア半島公用語の地位を占めるようになり、カタロニア語はカタロニア地方でのみ話される言語となった。カタロニア語は、同じロマンス語派に属するということで、カスティリャ語とも共通の特徴があるが、一方で地理的歴史的に関係の深い南フランスのオック語との共通点を少なからずもっている。

 前述したように出雲民族は言語、名字・名前、生活様式など、民族学的には完全に日本民族である。出雲地方の人々の日本民族内での位置は、大多数の日本国民が律令制国家の成立以来長期間に渡って日本民族として形成された通常の(いわばノーマルな)日本民族であるのに対して同一民族内の特殊民族ということになる。したがってフランス・ブルターニュ地方のケルト分離運動やスペイン・カタロニア地方のカタロニア民族主義、あるいはアイヌのような民族運動は出雲地方の人々においては起こりえない。日本民族の枠内での民族運動であれば起きる可能性がある(先ほどのラ行音の脱落現象だが、この変化は語彙の借用といったレベルではなく、捕虜として連行されてきたというレベルでもない。規則的・体系的な音韻変化であり、しかも、来る、走るといった基本動詞や使役・尊敬という重要な助動詞にまで及んでいるため、現在の山陰地方中部、いわゆる雲伯地方に朝鮮民族の王朝があり、この地方の人々が倭人化した朝鮮民族の末裔であることは確実である(ラ行音の脱落現象のある出雲弁(雲伯方言)の話し手は現在でも島根・鳥取両県に約65万人存在する))。

 とくに、前述したような『古事記』神の代の三分の一を占める量の多さからも分かるように、『古事記』において、出雲地方に存在していた古代王朝は有史以前に存在していた日本民族の強大な祖王朝として扱われている。

 日本民族のルーツを考える際にも、先述した出雲民族が有していた何者でもないという否定論理積(not-AND)性が想定できると思われる。

 (毎年10月に祭天行事を行う集団は古代日本における鉄文化の伝来に貢献している。日本では、5Cまで鉄資源は朝鮮半島から輸入し、それを国内で加工していた。辰韓弁韓などの朝鮮半島南部は良質の鉄を産出することで東アジアで有名であり、その様子は中国の歴史書にも記述されている。国内での鍛冶を担当する鍛冶部と呼ばれる集団の大部分を構成するのがこの祭天行事を行う渡来人集団である。2C半ばの大和政権は彼らを窓口にして朝鮮半島南部の鉄を確保し、国内の鉄工技術を独占することで国内統一の地盤を固めていった。

 定説では、出雲が大和朝廷の支配下に入るのは4C半ばである。常識的に考えれば、大和政権が祭天行事を行う渡来人集団を介して国内の鉄工技術を独占していたとされる2C半ばから4C半ばの間にかけて出雲地方に朝鮮民族の王朝が存在し、その担い手になったのが出雲民族でありその末裔が現在の出雲地方の人々ということになる。そして、4C半ばから、完全に大和朝廷の支配下に入る6Cの間に倭人化したことになる(ところで、定説では、出雲地方で本格的に製鉄が開始されるのは5C頃である。したがって、定説には反するが、5C以前に出雲地方で製鉄が行われていた可能性がある。また、この観点からは、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡は朝鮮民族王朝の遺跡ということになる)が、朝鮮民族から見れば同族が建てた別の王朝であり、2C半ばといえば朝鮮半島ではすでに歴史書の記述がある時代である。したがって、現在の山陰地方(島根県鳥取県)に朝鮮民族の王朝があれば歴史書に必ず一言くらいは記述があるはずである。まったく残っていない。少なくとも韓国の歴史教科書では祭天行事や古代の朝鮮半島南部で良質の鉄が産出され、楽浪郡や倭に輸出されたことには触れているが、神在祭(神在月)のことには触れていない(注18)。したがって、山陰地方に朝鮮民族の王朝が存在したのは朝鮮半島の歴史の記述が始まるBC37年以前ということになる。考古学的に証明できる朝鮮半島最古の王朝は、BC197年、秦末の始皇帝の死後の混乱期に一時的に復活した、中国北部に位置していた戦国七国の一国であった燕が漢の成立により討伐される際に、燕の王族である衛満が朝鮮半島南部に逃れて建国した衛氏朝鮮と一般に呼ばれるものだが、その際の混乱による大量移住か、その衛氏朝鮮が滅亡するBC100年の際の混乱による移住が可能性として考えられる。ところで、現在、根拠のない記述として否定されているが、『史記』には、朝鮮半島最古の王朝は、周の武王が殷の王族である箕子を華北地方(中国北部)に封じて朝鮮王とした、箕子朝鮮と一般に呼ばれるものが朝鮮民族の王朝の始まりであると記録されている。衛氏朝鮮が成立するBC200年以前は、朝鮮半島では、原始部族社会ということになっているが、BC100年の衛氏朝鮮滅亡後、朝鮮半島北部と南部では、扶余、BC1C〜1C、高句麗、BC37年、百済新羅、それぞれ約315年と、国家の成立に約400年の時間差がある。13C、チンギス・ハンは、モンゴル高原を本拠にして遊牧民族国家モンゴル帝国(元)を建国したが、帝国が瓦解すると帝国を構成していた人々は、モンゴル平原に帰り元の遊牧部族社会に戻った。BC200年以前の原始部族社会を漢に征服され、遊牧民族王朝が崩壊した後の姿と考えることができる。箕子朝鮮を肯定するわけではないが、前漢朝鮮半島北中部を植民地支配するBC200年以前に朝鮮半島北部に遊牧民族王朝が存在していたのではないか?『史記』の記述の、周の武王が殷の王族である箕子を華北地方に封じ、朝鮮王としたという部分はともかく、華北地方に朝鮮民族の王朝が存在していたということは何がしかの歴史的根拠に基づいた史実なのではないだろうか?
そのいわば幻の王朝時代の王朝交替に伴う混乱による大量移住を筆者は個人的に想像している。

 前述したように、定説では出雲が完全に大和朝廷の支配下に入るのは6Cである。だが、前方後方墳を中心にした出雲独自の要素が強い古墳文化の存在は、その定説を否定する。6C以前の出雲については未解明、よく分かっていないというのが実状のようである。)

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