今日は八時の飛行機で大坂神戸に、広報の打ち合わせです。
命の森が創る命の水。
そしてこの命の水が作り出す、自然界と人の絆。
それを共鳴し合う、人と人の絆。
人と人は、技術の優劣や財産の多い少ないや人間だけの愛情の世界観等の人間界だけのツールで繋がっていると、必ず好きが突然嫌いになったりと、政事で言う派閥的な物を産み出して、そこに場を作り出し、そこに存在する事に執着して、結果ボランティアとかとっても良い志の事でも、言い換えれば良い志という奢りの罠が、関係をぎくしゃくさせて行きます。
だから、先ずは自然界と僕ら個の繋がりがあって、その先に、人と人の繋がりが存在していることが重要だと、僕は今ではイノベーションのスタート地点をそこに確信しています。
だって集落等を作ったのは、遥か先。
自然界と響命し合う基礎がそこにあった。
雨が降れば雨の良さを先ずは感じ、雪が降れば雪の良さを先ずは感じ、敵対が先ではなかった。
此れは生活の中に当たり前に、自然界の畏敬や畏怖の念があると、良い意味の諦めから始まり、丸ごと受け入れるしかなくなる。
だから好きとか嫌いとか、アイツはここが悪いなどと言ってはいられなくなる。
部落の人間関係はそこが、ある意味革新的。
結構仲が悪い、
けれども有事の助け合いの精神が、日常の様々に現れている。
此れは都市部の人間関係とはまるっきり違う。
嫌でも一緒にいる事を受け入れているような、自然界を良いとこどり出来ない感覚と同じものが、人間関係にも現れている。
此れはそこにドップリと自分を浸してわかってくること、
一見面倒なようで、この方が長くうまくやっていける。
これを場を越えて出来ないかな?と言う事から、コミュニテイー作成が始まる。
夫婦喧嘩馬も食わない。
此れが全ての人と出来るときに、良い距離感が生まれる。
言い換えれば着かず離れず。
見えないカーテンをいつも大事に。
相手のフイールドで、自分の話は振られない限り、口を挟まない。
部落の会合は皆下を向いているが、そのよさがある意味わかり始めた。
ここにはボランティアはない。
助け合いがすぐに、自分に帰ってくる。
だから労力の貸しを直ぐに返すし、それを押し付けのように自慢もしない、
何故か。
自然界と共に暮らす方法が人間関係にも染み付いて表現されるからである。
しかし足りないのは都市部とは逆で、自分の住む場所への、未来への可能性を創造する力の欠落である。
都市部では、諦めながらも良いとこ見出だして付き合う響命が足りない。
直ぐにイデオロギーで戦いになる。
戦っていることにさえ気付かない。
そして、無意識に人間界で認められる人物への嫉妬が蠢いている、
そして里山では、大半が町へ出れた人への嫉妬が蠢いている。
けれども中に僅か、ここに暮らすことをこよなく愛する人がいる。
間違いなく自然界と響命して、生きている。
このような響命が、この活動では至るところで、今広がっている。
だから、僕の中で都市と田舎、都道府県と都道府県の境が、連鎖調和で自然になくなった、
此れが国境を越えるのであろう。
大陸を大きく横断する大河、
違いを越えて繋ごうとする、水の流れ。
人は人も含めて、全ての違う存在とこの水の流れように、繋がって生きなくてはならない。
昨日は神戸のサポーターさんから、手打ち蕎麦とアートテンのネギとニンニクが届いた。
これを食べて今日の新しい扉を関西で開いて欲しいと。
どうかこの水で、神戸を盛り上げてくれと
何故こんなに早く水を届けれるの?
僕は答えました。
魚屋よりも威勢良く、毎日を体動かしまくって生きている事が、水と唯一響命する。
停まって後でやろうと先伸ばししてはいけないのが水のしごとである。
水は休んだら、止めたら、いけない、
だから常にムーブメントを、イメージしていないとならない。
サッカーやダンスそのものがこの仕事である。
何故なら生きている最大のベースを扱う仕事をさせて頂いているから
この命の森が創る命の水。
それが生み出していく響命は、水の流れそのものである。