各国大使館10ケ国が、東京から大使館移転。何の前触れでしょうか。
それは、放射能なのか地震なのかは、僕らにはわかりませんが何かの前兆であることは確かでしょう。
備えることの大切さは、直感に従うしかない。
けれども、変化を認めたくない我々人間は、どうしても現状維持の妄想にしがみつく。
これも新井先生のblogにも書かれていましたが、高度な自給自足のシステムを本気で作り上げるかどうかでしょう。
その経験が縛りのない出入り自由なコミューンを、日本中に創るきっかけに、繋がっていく。
そう僕は信じています。
カナダは日本そのものから、既に日本から撤退。
先進国でありながら、テロや火山の噴火が起きてもいないのに、東京からの移転や日本から撤退を現実化させているとは、世界から見ると日本は大変な状況にあると判断されていることは、ほぼ間違いない。
当然、この動きが加速すると、輸入品は殆ど入らなくなり、この自給率の少ない国で我々は対面ばかりで、実質的な民の為の国家システムという、早期からヨーロッパが準備してきた、経済が停まってもどうにか食いつないで行けるシステムを本気で創ってこなかった事に、日本中が直面することになるのでしょう。
海外から作物を住宅建材等を輸入するとは、結果的に他国の水資源、森林資源を我々が食い荒らしている事でもあります。
そして、我々の国だけが、干魃からどうにか救われている。
その基本的な《生きる》変革に着手しないなかで、他国に水資源を狙われる。
だから日本が水資源を森林を守るためには、一番日本人が変わらないとならない。
とりあえず、ヨーロッパは経済が停滞しても、自給率は有に200%に近いのだから、時代が陰の時代に完全に移行し始め、経済優先世界でなくなり、新しい仕組みが世界を繋ぐまで生き残れる。
韓国経済も国家破綻に向かっている。
日本だけが、この変化を免れるはずがないし、中国アメリカのような大国に従順しても、道は開けないであろう。
逆にしたたかに、大国は日本を利用出来る限り利用しようと。
そして、全ての対外的な流通がほぼ途絶えたときの状況を、取り合えず本気で想像して欲しい。
如何に危うい筏の上にいながら、何事も起きないことをただ祈るだけで、実質的な活動をしていなかったかが、明白に想像できるでしょう。
本気の地消地産に向かう準備。
そこに向かうための、システム作りと実践。
此れはボトムアップでの革命以外ないのである。
そしてそれは、自分の古い価値観との闘いではあるけれども、イデオロギー的な対外に敵を見つける思考、そのものからの脱却が入り口になる。
その為には、新しい生き方を取り合えず実験できる、実験場作成がが急務であり、それは狩猟採取的な思考を今の場に移転できるかでもある。
脳は現在の自分達の置かれた立場を、そのまま肯定するために、簡単に敵を見つけ出し自閉症に陥る。
しかし、自閉症であることにも気付かない。
それを根本から、古い脳の使い方として捨てて、我を通して人類を俯瞰して観る事からしか、アートな思考は生まれないのである。
アートな思考は、今の専門分野的な、弥生思考の拘りを取り合えず何処かに外す以外にない。
それは、野生の中にある泥にまみれたダイヤモンドを見つけ出すようなものではあるが、ダイヤモンドを見たことがないのだから、見比べることは不可能である。
だから取り合えず、見えない場に向かって進むしかない。
そうやって里山のそれもどん詰まりから本格的に始めたこの新しい生きるの実践は、一つはより《お入らずの森》に向かって、もう一つはより都市部に向かってこの中間点の里山から、螺旋での動きが一番見渡せる所でもあるのですが、単純に里山や田舎で暮らすのとはわけが違う。
相反する、自然界と都市生活の真ん中に居続けないと、その打開策も見えてこない。
それがこのようなプランで始まった、十五年前、そして第一のキアスムの地として選んだ伊豆での六年、そして完全なキアスムのど真ん中での、この水源地の側に生き始めて見えてくる景色がある。
まるで、グッパイイエローブリックロードの橋ではあるが、ちと違う。
田舎と憧れた都市、そしてUターンIターンではなく、壊れそうな橋なのに、その橋に居続けて、唯一繋がれる方法を見つけながら、ジョイント部品交換をし続けるような作業である。
ここで橋を落とすと、人類は又々崩壊へ向かう。
けれどもこのままの、方法で繋いでいたら、自然界が自ら生き延びる道への一歩を踏み出す。
だから、里に足を運んで頂きたい。
自然界の声を水を通して、体に染み込ませ、DNAを通して聞いて欲しい。
グローバルマネー資本主義と、自然界のバランスの両方の脅威のど真ん中でしか、聴こえない相対するモノから、ほんのたまに響命する瞬間のハーモニーを。
それが、現代音楽が目指したモノである。
今里が一番苦しく、一番進んでいる。
そして、この場がスタート地点であることだけはワカル。
まるでモノノケのアシタカのように。
ここ里山という場に月に五日でも良い、先ずは一年身置いてみる。
いったり来たりが最初でも、それもイデオロギーであったことに、必ず出逢うときがくる。
都市部でも、自然界の中心でも、僕らは生きられなくなっている。
響命するは、一瞬なら可能であるが、そこに生きるとは別である。
昔ならそこへ戻れるが、もうその時代はとっくに終わっている。
それは今一つ盛り上がらない、クリスマスやお正月に現れている。
都市部では、創造しない事が今限りでは重要な参加項目なので、家畜化されたクリスマスやお正月を楽しんだふりはしているが、実際に心から満足している人はいないだろう。
食っても買っても、何かが置き去り。
この不満こそが、我々の中にもある、野生である。
しかし野生には、人は生きれない。
この里山どん詰まりでも逃げ出す人類だから。
けれどもその里山どん詰まりというキアスムのど真ん中から、右でも左でもない全く違う方向への扉が必ずある。
その扉のドアノブに手をかけて、明けだした自分を今は確かに捉えている。
そして、殆どのかたがOZ.の住む都市に。
そして、モノノケ姫はお入らずの森に。
アシタカが残った新しいタタラバこそが、新しい里山資本主義でもある。
あの美人の、人間には心優しい才女と野生の気持ちもわかるアシタカは、どのようなタタラバにしていったのだろうか?
キット政府の傘の下での、タタラバではないことだけは確かだし、野生を忘れない所に自分をおき続けたのも確かであろう。
宮崎駿さんは、その先を視聴者に託した。
あとは深くから受け止め、行動実践するのみであろう。
確かに橋の真ん中に扉はあることだけはわかり、そこの先に全く新しい世界が広がっている事も充分に見える。
DNAの記憶と一致する創造が見える。
霧だけが晴れない。
霧を晴らすことが、二次元(イデオロギー)から、三次元の現実の仕組み作り出す。
その時我々は自然に四次元思考でいる。
それは訓練して磨くしかない。
その間股関節の痛みを訴える人類は、急速に出始める。
それは、腸を柔軟にして待つ。
生まれでる為にトーラスが肚から凄いエネルギーを出す。
けれども今までの骨盤では、小さく痛みが出る。
妊娠時と同じ事。
シュタイナー的に言うなら、高次な自己の出産である。
この妊娠出産の長さが、読めないことが又々、痛みを増長させる。
しかしその先に、新しい命が生まれでる事だけは確かである。
そうなると、女性性器の形そのものが、キアスムの中心でもあり、それは全人類の子宮の開眼でもあるのだろう。
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