サポーターで妻の大学時代の同級生が家族で訪れてくれました。
田舎とは、何処が記憶してるのでしょうか、水フェチで研究してきた僕ですから、もちろん答えは体液です。
前もblogに載せたように、鱒や鮭は湧き水で稚魚を育てても帰省先が体内に記憶されず、帰ってこれませんが、このお山の七号目以上で登って涌き出る伏流水では、その水の情報記憶が稚魚の体内に記憶され、帰省先を本能で見つけ出すのです。
我々も生まれた地なのに、何かしっくり来ないのは、もうすでにそこの水が体内の記憶の水から、大きく変化してしまった証拠です。
その事が街のラウンドスケープ建築にも影響して、実は体内記憶が求めているものとは、全く違うストレス社会をあえて作り出すのです。
ですから、毎日自然に2000年前や10000年前のお水を飲んでいるうちに、DNAの記憶が求める命にとっては、過ごしやすかった環境を創造して、実践出来るようになるのです。
創造とは、始めての事ではあるけれども、DNAレベルでの懐かしい何かを、現実に表現し直す行為です。
アートはまさにこれです。
ですから、振り付けは、あるときから僕にとっては、発見発掘になってしまいました。
だからこの地に越して薪割りしながら降りてきた、詩やメロデイーも作曲作詞は、《オヤマ》さんなのです。
僕のフイルターを通していますから、そこには雑味や余計なモノが沢山見えています。
それを出来る限り消し去っていくと、宇宙のメッセージに近づけます。
いのちの森響命プロジェクトのマークとテーマ曲は、縄文ミュージシャンマサゴさんの元々の作品ですが、マサゴさんの作品の素晴らしさには、降りてきたモノを自我を通して、一度表現しながらも、出来上がった作品には、エグミやザツミが全て取り払われ、このエグミやザツミさえも、大きな全体という縄文宇宙が包んでいる、愛の大きさをいつも感じてしまいます。
余りに自我がなくなると人間臭さが失われ、そこには神々しかいないような、違和感が生まれますが、自我とはエッセンスにもなる素晴らしいアイテムだよと、マサゴさんの作品は気付かせてくれます。
昨日訪れた、あだ名ウエンデイーさん一家も、この皆の家をとっても気に入ってくれました。
この家はそのような自我も、そのままでありながら、いつのまにか自然界に包まれ上手に融合されてしまうという、何かがあり訪れるサポーターさんは、皆さんここでのオルタナテイブな養老院や学校を創造し始めてくれます。
昨日もボトリングしながら、ウエンデイー一家が新規の方の箱を組み立ててくれたりするのを見ていると、サマーキャンプやウインターキャンプで都会から、夏休み冬休みに来られる家族が、体内の水とお山の水が響命し、エモイエヌ懐かしさ安堵さ幸せ感、安心感が体内を満たしてくれる。
それが自然に出入り自由なコミューンになり、そこから生活の場を水源地の麓に構える。
お父さんは、週に四回ほど単身赴任で東京へ。
三日の帰省で家族と農をして、里山資本主義を創っていく。
それをもって東京へ戻る。
それは野菜であり、自分達が造った加工品であり、伏流水そして安堵感。
これで、この安堵感が都市部の殺伐感を払拭させ、素晴らしいジャパンアイランドになっていくでしょう。
これこそが、縄文のビーナスの夢です。
僕らはいよいよそれを現実化して、世界に発信する時が昨日の冬至から始まったのです。
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