今月は皆様の応援の輪が広がり、月間50名強の登録を頂きました。有り難うございます。
民の主体で、命を育む森と水源地を守る為に、伏流水をお山のお届け物として森を身体で感じる活動に、月間50名強の登録を得れる所まで、どうにかこぎ着けれるようになりました。
本当にありがとうございます。
月間100名の登録で、どうにかこうにか活動を広げていける下地が出来るのですが、そこのラインが見えてきだしました。
これも人から人へと、ペイフォアードで広げて頂けた、皆様の志の結果でもあります。
このマネー資本主義から自然界を切り離して、里山資本主義を成り立たせるという、イノベーションでの売らない水のシステムは、慣れ親しんだ脳の破壊でもあり、前途多難なスタートでしたが、どうにか人々新しい意識に少しずつ灯がともされ出して来たようです。
大人になればなるほど、新しいシステムを受け入れ難くなっていきます。
もう此のままでは、水が枯れそうな世界の実情も、何となくわかっていても、必要悪と諦めてしまう。
ペットボトル水を大々的に広げた、アメリカは今、ペットボトルのゴミの多さに困窮し始めています。
それで国が水道水を国民に飲ませようと、今躍起になり始めています。
市場では、全てが予定調和。
売れる見込みで、生命エネルギーを奪われた腐る水を、ボトリングして在庫を抱える。
ヨントリーのように期限切れギリギリで、叩き売り。
エロハスのように、他国で取水。
此では地球上の山が持つはずがない。
ハワイの海洋深層水が良いからと、ワザワザ船や飛行機で他国から運び込むのも、どうも腑に落ちない。
焚き付けるのは、ネットワークにビジネスを足して、とにかく多売多売。
けれども、消費者はその結果お山が大地がどのように、干魃に向かっているかは知らない。
その、養老孟司さんなら虫の目線、宮崎駿さんならアニ目といわれる、その結果起きている元の場の荒廃を共に感じることには、このグローバルマネー資本主義は、あまりにも片手落ちなシステム。
回りに此れだけ豊かで、回復させれば、永続的に命の水が溢れる日本。
灯台もと暗しな今の実情であり、気付く頃には元も子もないになる。
それで、良いの?
この問いかけに、たかが僕なりのイノベーションに、お付き合いして下さるサポーターの皆様には、本当に感謝と共に尊敬の意を述べたい。
昨日から此方は三度目の積雪。
今日から二日までの三日間で、もう一度黒伏山に汲み上げに行きたいのですが、自然界の神様はもう一度今期黒伏山で取水出来るように、お山のガタガタ急勾配の林道の雪を溶かしてくれるのか、神のみぞ知るという状況です。
九州から北海道まで、この《森と水源地の縄文トラスト》活動への賛同参加サポーターが、全国に広がってきだしました。
首都圏も東京、名古屋、大坂、京都と、遠い場所から送料を負担しても、この活動を応援してくださる気運が高まっている現状に、僕は力を頂いています。
このロールモデルに、灯がつく全国の水源地が、いよいよ水の地産地消を目指す、次の段階に入って行けます。
供給前提でしか成り立たない都市部は、マネー資本主義とは別の方式で命を支える。
そうしながら、命の根底に繋がる産品自給は、都市部でも創意工夫でいずれ目指していく。
自給できる都市として、世界にアピール出来たときに、東京は変わる。
ドバイのような砂漠化以後の場に、擬似的な生活空間都市を作るのは、まだ許せます。
しかし、東京近郊に自然の気配が消えたのは、昭和40年ごろからです。
東京の住宅地の駅前が殆ど同じ景色なように、上海もドバイも六本木も殆どが同じ様相。
此れは、画一化という平均値が、ドンドン僕ら脳を馬鹿に仕上げていきます。
自然界には、画一化は皆無です。
これに一番悲鳴をあげているのが、子供達です。
唯一無二で生まれた魂が、生まれでたとたんに、画一化に教育される。
養老孟司さんのご本に出てくるこの言葉、本当に引き繋いで結果をだしたい。
現代の都市化一律化で起きている現状は、全てが言葉になるはずだと思ってしまっている。
だけど解りきった自分の身体でさえ、全て意識にはならない。
もうそろそろ、自分の文化を客観的に評価したらどうかと思う。
戦後一番なくなったのは、自分への素直さ。
だから、組織に勤めて、手続きに従って、団子になって生きてるんでしょ。
現代社会で個人として生きている人がどれだけいますか?
自分自身の好みすら、もう無意識に徹底的に抑圧しているんだから。
だからたかがその好みに、社会は理由を要求する始末になってしまう。
メデイア関係者は自分達が、素直じゃない、本音じゃないに気付く必要がある。
何故本音を言えないか。
組織人、つまりサラリーマンだからであろう。
究極的には、自分の本音よりも会社が大切だから。
だから、何故と訊ねると、たちどころにわかる。
そんな事言ったら、会社を首なります?
何時だって世間は本音を求めている。
媚びる、注目を集めようとする、てらう、本音を隠すそれがなく、それでいてある水準に達している、それが売れる。
つまり世間は、表現に当然を要求している。
そして社会は、本音で語るものを子供だという。
そう批判するなら、大人はいったい、本音以外を語ることによって、一体何を維持し、何を守ろうとしているのか。
権威か。
ここまで堕ちた日本という世界、その何を、どう維持しようとしているのか。
必要なのは、深さを備えた普遍性である。
人の脳のもっとも重要な機能は、ひょっとして一般社会が思っているように、個性的な思考をすることではない。
普遍的に、つまり根本的には誰にでも通用する、そういう思考をすることなのである。
下手な英語で話が通じたと喜んでいる。
それで良いのだ
重要なのは通じる事だからである。
子供が子供でいられない時代は、そろそろやめにしよう。
僕もここまで、テラウとか、よく見せようともがき、媚びての時期を越え、あるときから全て本音の等身大でいきはじめた。
今でも、講演が終わってから、妻に組合員に良かったよと言われるけれども、サッパリ覚えていない。
だから、テクニックではない。
けれども、下手なりに、通じ始めた。
此れが月間50名のサポーター登録に漕ぎ着けれた気がする。
だから、うまく纏めることは出来ない。
その代わり、もっともっと本音で生きたい。
変なものは変と。
きっといつか、無意識にある水準までたどり着けるであろう!そんな予感が、今日の月末の雪の朝の薪ストーブの前で感じたのです。
いかに変を、表現として陰謀にもスピリチュアルにも逃げないで、誰もが解る当たり前として、水汲み親父を生きるかです。
その寒さ、冷たさ、清々しさ、お山の気配の暖かさ、全てが僕を水準までに、地球が僕の活動が必要だと思って頂けたならば、運んでくれると思っています。
サポーターさん、ペイフォアードで協力して下さりながら、待ってね。
僕が水準に達したときには、この当たり前の正直な本音の活動は、陽の目を浴びると思います。
お山の恩恵が創る、オルタナテイブな保育園、幼稚園、学校、養老院、そしてシルバー食えてるNPOが一体となった里山資本主義がみえだしたとき、僕の水準が達した証拠なのでしょう。
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