森は全部で生きている
森は森という社会全体と、木々や野性動物、昆虫、菌類それぞれの、体内と呼応しあって、命を響かせあって生きている。
森に入り続けるうちに、この響きあう音や空気感が、聞き取れるようになってくる。
それまでは、鳥のさえずりと、風の流れと、水の流れる音、遠くでなにかをジックリ見て別ななにかをしっかり捕捉するカモシカんの、間に流れる何かを聞き取る事は、僕には出来なかった。
いつ聞き取れるようになったかを、僕は知らない。
それから始めて、自分の内部の臓器と臓器が、臓器と筋肉が、骨と血管が、おしゃべりをし始めた。
その時、アレ、アレ、アレ。
血管内部の水の動きがわかりはじめた。
その時、森は水の情報で繋がっているのがわかりはじめた。
そうか、世界は、水で響きあっていると。
では、どの水が本当の響きを伝えてくれるのか。
迷うことはない、勿論野性が取り入れている水だ。
勿論木が取り込んでいるものと同じ水。
それは伏流水だった。
そして、一年体内の水がほぼ野生化したとき、森の声が聞こえるようになりはじめた。
リッスン トウ ザ フォレスト
僕は人一番、感覚が悪い。
だから、瞑想したって、声は聞こえにゃしない。
だから、一生懸命聞いただけ。
森に。
僕らはどう生きるべきかと。
森はいつも教えてくれる。
あなたの体の中にもまだまだ、我々と同じ水が流れているでしょう。
その流れ、血流を観察して。
耳で捉えながら、映像化して、それをあなたの写し鏡である、波たたない静かな泉に写して。
そして、血流が波たたないで、源流のように、右へ左へと、美しく回転して蛇行しながら、流れる様を感じるまで、イメージして。
イメージできたとき、あなたの川は既に、この水源地から沢に代わる瞬間と、同調している。
その状態であなたが素直に想うことが、森の声です。
知識も大事、情報も大事。
けれども、それは、自然界の声ではない。
自然界の声は、聞くしかない。
自分の静かな泉に写して、聞き取るしかない。
僕は、それを伏流水に載せて、お届けしているだけ。
雪が降ろうが、雨が降ろうが、台風がこようが、伏流水の水源はいつも静かです。
本当に静かなんです。
だから、本当の自分にされてしまう。
必要悪ではあるけれども、市場の都合に載せられた、お水や食物をそして建材を一度解放して、命そのものにして僕らが戴く。
味覚も嗅覚も勿論聴覚も視覚も、今はあまりに近い情報解釈になれてしまい、本質を感じ取れない。
何故なら、そのような仕組みでの毎日が、マネーだけの市場を豊かにする方法だったから。
その与えられた毎日が、僕らの感覚を歪めている。
感覚さえも、市場で分断させられ、よってお金が回る仕組みになっている。
それには、地球はもうついて行けませんと、声高々に訴えはじめた。
フイリッピンで、日本で、アメリカで、世界中で。
聞き取らないのは、僕らの短絡的な都合での、知らないふり。
無視が一番クラスターを傷つける。
あなたの血液が、そのなかの結晶が、歪になる。
あなたが自分を大事にしたかったら、せめて自分だけの時間は、森の声を聞く時間にしよう。
それが生きた水を飲むこと、愛工房さんの生きた木の家に住むこと、そしてアートテンテクノロジー化された生きた食を頂くこと。
それが生きた森と、あなたの感覚の想像力が呼応し発動して、自分のなかに森が生まれる。
いつもあなたの静かな泉に、あなたの森が写し出されたら、もう決して失わないで欲しい。
それが新しい縄文時代を生きる《場》を創る、蝦夷の地球の役割を遂行する為には、必須な条件である。
最近は、この自分の静かな泉に森が写し出されている方と、本当に確実な出逢いが用意されてきた。
キット、この十一月十二月、即ち冬至を無事この活動が越えれたら、何かを大きな事が始まる予感がある。
まるで、静かな泉に、石ころを波立たせないで、落とせたときに、大きな波紋になって広がるように。
その波紋は、無意識世界という、無限の泉にその瞬間、変換されて巨大な地球の命の共鳴による、大きな改革になると思う。
響命が覚命を産み出す。
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