東北奥羽山脈から中国山脈まで、1200キロ山の植生を観察しながら走り抜け思うこと
人の生き方に、密接に関わる山の状況。
今回高速を走り抜けながら、ナラガレ、土砂崩れ、針葉樹の放置状況を観察したく、軽の4WDで1200キロを駆け抜けました。
大平洋がわは、ヤッパリ悲惨な状態で、運転しながら、山の叫び「助けて!」を感じとり、思わず泣けてきました。
人が集まることが耐えれなく、子供を連れて山形から三年前逃げ出した前妻が、田舎暮らしを決意して、この中国山脈の岡山がわ、阿波に越して、そこの自然の状況把握と里山の人間関係把握と、そこで必要であろう車を届けるためでした。
兵庫まで悲惨だった、山の状況が、中国道を走り抜け、岡山に入ったとたん、突然に北陸、東北と同じ植生がみえだして、ここが良いと選んだ、八歳の娘の直感は、素晴らしいと感じました。
五歳までに、僕が彼女に伝えたかった、様々なベースが彼女の中で、見事に息づいて成長していました。
そして、東北、北海道、北陸、そしてこの中国地方から、ナラガレを回復して、水を回復させて、健全な新しい里山ありきの日本の仕組みを作り上げる、決意を再確認できました。
ナラガレは進行中でも速度の遅い、これらの地域に共通するのは、過疎化に向かってはいますが、山河に生まれて山河に変えるという、縄文の古代渦文明人の生き方の根っこが、まだまだ息づいていると言う、実感でした。
この岡山の阿波も、東北の豪雪とまではいきませんが、それなりに、冬を越せる為の叡知と畏怖の念、そしてそれによって水が清められ山が休めると納得する事で、その大変ささえも、畏敬の念で許せて感謝に変わる、山河に暮らす心意気が試されます。
今度こそは、しっかりと根をはって、耐えてみて欲しいです。
僕もそうでしたが、地元の人は里山にあこがれ、越してきては逃げ出す都会人を、山ほど見ています。
八十歳でも、普段は杖をついているお婆ちゃんでも、逞しく屋根の雪降ろしをなさります。
僕が里山に、ラオスに存在するワーキングビュウのホテルをモデルにして創りたいと、僕らの計画に載せているのも、この心意気をもう一度全国で日本人が取り戻し、元々あった、自然と共に生活出来た人のタフさを取り戻して欲しいからです。
このような、生活の中での一見無駄でやりたくない、例えば、うちの場所では、四時には起きて、除雪しないことには、八時に出勤のために、家を出れないとか、雪が心配で仕事アフターに飲みに行くとか、経済優先の残業に精を出せないのです。
ここから僕らは逃げ出して、便利さを追い求め、結果、生活の仲間である家族としての山河を忘れ、イベントやレジャー、スポーツの対象にしてしまった。
生活の仲間であり、家族として山河を捉えていたからこそ、そこから原始的な信仰も生まれ育った。
だから、もう山に神が、山の水の流れに神が、宿っていない。
神をそこに住まわすのは、謙虚な僕らの心です。
結局は、畏敬や畏怖の念が感じない山河や神社仏閣は、人がそのように感じることをやめたからなのです。
僕らの畏敬や畏怖の念は、エネルギーです。
そこに実は、自然界も不思議にエネルギーで答えてきます。
同調してきます。
その入り口が、手グミで山に入り水を汲み上げ、届けてみる、そして、僕と言う媒体はどうでもよく、直接に家庭に会社にこの畏敬の念をおき、共に時間を共有していただくなのです。
例えば送料でも、高いと言われる方がおります。
しかし、安く契約できる業者は、うちの山の上まで車で冬には入って来れないのです。
だからこそ、守られている水でもあるのです。
いま、ワンウエイボトルは、残念ながら却下に向かっています。
ひとつは、ヤッパリ開かれた水を入れると、ビニールが味にとけだし、有害物質を中心に包み込み、閉じた水に変化してしまうことが、実験で解ったからです。
もうひとつは、行ったり来たりの中に、響き会う環境が生み出せるからです。
容器を買っていただき、ワンウエイボトルで送り、家庭や会社で容器に移し変えるは可能ですが、その手間は思っているよりも、お互いにしんどい。
そして、送られる間にも、とけだしているはずだからです。
そして、絵的に段ボールの中に水の容器が一体になっているのは、設置したときに、美しくない、これも理由です。
マークを張り付ける抵抗があり、出来ればノーマークで、水を届けたい。
畏敬の先から届いていると、ノーマークがマークにしたい。
本物の水に名刺は要らない。
企業で始めての、社員向けの水のサポーターになられた、イオス様の希望で、12リットルのボトルでのリターナブルは、早速始めてみます。
12リットル二個入りで、発送することになります。
これだと、今のリターナブルの段ボールがそのまま使えます。
このように様々な観点から悩むのも、お届けしたいモノは、水ではなくて、一見無駄な畏敬の念をそして畏怖の念の気配を、生活の中にお届けするが、目的だからなのです。
より、生活者に経済的な負担を減らすは、今後も努力をしますが、都市で暮らすという事は、実は生きるにとって、本当は不便を作り出して、それを偽物の便利さに置き換えて、僕らは人間のみの生活の便利さを作り出した結果が、如何に自然界の変革時期には、一気に不便に陥るのかを、今の時期は知ることが重要ではないのでしょうか。
本当は不便だったそこから、もう一度都市での暮らしぶりを見つめ直す時期が、この九月九日以降に始まる予感を、僕は感じ取っているのです。
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