昨日は登山道のない、端山に直登で登り降りのワークでした。
いよいよフサエさんの個人レッスンが終わりました。
そして本日、連れだって、新井先生の長野でのコズミックセレブレーションに参加です。
最後の〆ですから、当然端山に登り、全速力で下って貰います。
その前に三時間かけての、反転ワーク。
上下を反転、左右をクロスで反転、そして内と外を反転です。
これで、三次元の世界に、四次元でかかわっている、所作が可能になります。
昨夜テレビでやっていた、緒方貞子さんが、仰る、先ずは決めてしまうの。
あとは勘を頼りに突き進む。
これが日常になります。
この世に、全く新しい事を作り出すとき、とにかく大事なのは、決めてしまうこと。
そうすると、腰の骨が頭蓋骨に替わります。
腰で見て、聞いて、嗅いで、味わって、尾骨と繋がる触覚で、突き進めます。
腰が、勘を効かす、重要な機関。
これに自信がつくと、全く不動になり、弥勒が動き出す。
宇宙全体の、意志を統合して、今の自分があるとき、孤独でありながら、孤独感は皆無なのです。
身も心も全て、宇宙に任せている。
勘を頼りに、策略を捨てて、真っ直ぐに進んでみる。
勿論このblogでおわかりのように、変換ミスはあるし、伝えても解らないであろうことも、そのまま抽出してみる。
勘を説明することほど、困難な事はない。
勘を必要とするから、感覚機関が育つ。
そして、意識が強固になる。
意識とは、意思が強固であるかを識別して、保ち続けるしかない。
全ては意識、とは言うけれども、意識さえも体は知らない。
お山に登るのではない。
お山に入るのである。
外からみた山は、正八面体で、地下にもピラミッドがある。
その中心に入る。
頂上で上下のピラミッドをツクッテ、上下を逆転させる。
ミクロがマクロに、マクロがミクロに変化する。
それが中心に入ると言うことになり、下山は、逆に登ると言う感覚に変える。
そもそも、僕らは、母親のお腹で釣り下がっていた。
頭から、膣を通って出るようで、それをコントロールしているのは、腰の勘だ。
これが、登山道のない、斜面角度60度の山では、まるで膣から出るように腰が活性化される。
だから、筋肉痛がおきない。
即ち、一番元気な精子にだった自分に、戻るのである。
そして、三〇〇メートルの山が立ち塞がっているほど、人生で立ち塞がっている悩みはない。
それが、始めてのかたでも、四十五分で登れる。
僕一人だと、十五分かな。
下りは三分。
人は猿だと言う。
アイヌのアシリレラさんは、その様子を見て、以前僕を樺太犬と名付けた。
よは、動物の感覚、本当に戻ってしまう。
究極は精子に。
何万匹の一等賞で、卵子に突入した、自分を思い出す。
何のために、そこまでして、鮭の産卵のように、膣を掛け上り、子宮を目指したか。
目的達成のためである。
その目的を思い出す事が、意識だ。
小さな意識の積み重ねで、意識の塊が星のように、観えてくる。
それは、プラズマの光を出す。
その時、自分の中を満たす水は火入れされ、金化される。
それがオーラだ。
一度火入れされると、燃え尽きるまで、光を放つ。
ドンドン光度を増す。
だから、自分の得意分野に鎮座していたら、己の全体意識とも再会出来ない。
だから、得意分野を更に磨きたかったら、全く違うものに、純な精子に立ち返り、その未体験な場に自分を置く以外に方法はない。
そこで出逢う自分は、全く回りから知らされてきた自分ではない。
そんな自分と出逢うためには、一度捨てさせられる。
そこで残るものは、本物の意識の一部である。
本来宇宙から与えられた意識は、捨てたくても、残念ながら、なくならない。
それが嫌いであろうと、その自分を受け入れるしかない。
後は自分を反転させて、パン生地を捏ねるようにしていくうちに、全体意識に出逢う。
そこにはイデオロギーが入り込む余地がないので、悩みも不安もおきない。
このとき、光始める。
陰が陽に変換され、陽が陰に変換され、勾玉が急速に回転し始める。
これが水のクラスターの回転である。
そこにプラーナが入り込む。
まさに宇宙意識そのものに、自分がなるのである。
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