新しいIターン 森と水源地の縄文トラスト 響命美緑水
blogの観覧も昨日は、突然の大台2045名、読んでくれた方に、先ずは感謝です。
共に新しい日本を拓くきっかけを、この美緑水は受け持ってくれているように感じます。
行基は、歴史背景や直感を混ぜ合わせて紐解くと、様々にそうだったのかと、ガッテンが行くことばかりです。
勿論、人間ですから、ブラック的に捉える、文献もありますが、これだけの事をなし得たのですから、当然悪く言う人も出るでしょうが、そこを感情ではなく、しっかりと冷静に想像していくと、ヤッパリ凄いスーパースターです。
東大寺を始め造ったお寺の数、掘った池、通した道路、開いた温泉は、全国中に余りにも多い。
彼を慕った労働者を、癒すたに温泉を開いている。
映画テロマロマエの、ローマの王どころではない。
僕が地元のかたに、伏流水銭湯を無料で提供しよとしているのも、行基の心でした。
伊豆にすむ頃に、現代の二宮金次郎を目指そうと、彼は薪を背負って、本を読んでいた努力家だけではなく、その当時使われてなくなった様々をリニューアルして、そこに流通を起こし、サビレタ地域と、人口爆発で沢山の問題が出始めた江戸の関係を、リニューアルさせたかたです。
捨て去るものに、新たな命を与え、そこから資金を生み出し、自然界を甦らせた
この生き方に感動して、アラエビスには、ホルモン流儀のセクッションを設けました。
今では、天候不純で捨て去る果物で、様々なモノを造っています。
響命美緑水の会員の方には、《弥勒菩薩からの贈り物》として、ささやかではありますが、サクランボジャム、ウメジャム、ウメ入りのトマトパスタソース、炭、木酢液、梅干し、梅酒等をおまけでつけます。
このお山繁盛家内繁盛水《響命美緑》副題に(日本のモリス 行基の想い)とWブランドで、縄文のビーナス ヌナカワヒメ《響命美緑水》がセラミックの縄文のビーナスの器に入って、ピュアウオーターと、炭酸水で製品化して、売り出して行きます。
このブランドでは、おまけでのモノを、精度高めて、完成度の高い製品にして行きます。
行基は、まさに大衆から、国を見た人であることは、間違いない。
そしていま、学術的にもこの行基に任された、慈恩寺が国宝を目指している。
これも全体としての大きな流れであろう。
行基はまさに、非正規労働者達に特技を見いだし、アーテイスト集団に仕上げ、国さえも認めないわけにいかなくした。
その集団が知恵を駆使して、国の冠を貰いながらも、利権のみの流れから山の恵みを守った。
それは、水であり、金等の鉱物であり、それを生み出す山の仕組み全体の命の響きだ。
金も銀も伏流水も掘り出したり、汲み上げたりはできても、造ることは僕らには出来ない。
一山衆の心「山河に生まれ、山河に帰る」の、ヌナカワヒメとフンババの心の継承をする民によって、民の政治をいよいよ取り戻すときが来たと、感じる。
その流れで出逢った行基は、三蔵法師の流れから行基に手渡され、空海に引き渡された。
天童という名前が、二人に童が天から降りてきたとの、逸話で命名されたのは知っていたが、これが実は行基がつけていた。
その二人の童こそが、シリウスAとBではないだろうか。
それは、移動星船のニビルによって、何か大きな壮大な宇宙の意思を伝えに、太陽系に近づく。
後750年後。
それを強引にマヤ歴と結びつけたさせたのも、シリウスの意思ではないかとも感じる。
僕らの宇宙意識を高めるために、ある意味ブラックさえも手中に納め、動かして全体意識を高みにのせていこうとしているとも、捉えている。
ならば、陰謀さえも、影を見せてくれるためにある。
弥勒はまさにそれをも含んだ全体としての32面体であると感じる。
合気道開祖の盛平翁は、「我即宇宙の中心」と言われ、その事が中学からズッート僕が紐解きたかった、体の使い方である。
そしてある日、十二のベクトルが創るベクトル平衡体と32面体の関係が把握できたときに、盛平翁もシリウスに中心を見いだし、その中心から武術を高みにあげた。
火事場の馬鹿力は、まさにシリウスを中心に据えた所から、生まれでる力を使える時である。
その時にミロクが体感できる。
そして、ミモンギンセンをつくったであろう御方は、S社長が紐解かれるように、行基の父ではないだろうか。
国の民は、まだまだ殆どが命の響きあいで、贈与交換が主体。
他国との取引にのみ、創った鉱物での貨幣。
銀や金へのマーキングには、芸術的な手腕が、必要になる。
ラスコーの洞窟にある壁画と同様に、紙の上でも描けない模様を刻むには、鉱物を即ち山の仕組みを知り尽くした知恵が必要であり、その知恵の存在をマーキングすることで、他国に技術の素晴らしさ創造性の違いを見せつけ、此だけの智恵を持つ民族を攻めこもうなら大変な事になるよとの、闘わない武術、即ち無刀派の山岡撤収の心の表現を、国自体が持っていたのではないだろうか。
紙にマーキングして、安易に刷れる紙幣が生み出したグローバル資本主義とは、まさに違う。
ましてや、ユーロや元を見る限り、人生ゲームのお金よりも、幼稚である。
そうなるとアートは、一つの武器であった。
それだけの国宝仏像が、触れるような場に、無造作に奉られている。
そこには、インドも中国も入れて、相手をたてたうえで、その上にある技術を実は他国に見せ付けている。
そのバックボーンは、半径十里にある、お山であるとも示す《慈恩寺》そして《行基》には、壮大なロマンと、現代人が継承するに値する意思が確実に盛り込まれている。
今後はこの心の在り方を、世界遺産にしなくてはならない。
人間が、無造作に入る世界遺産は、結局環境を破壊する。
お入らずの森を半径十里に遠くおいて、一般が来るのは先ず此処と慈恩寺は示していた。
そしてお山を、グローバル資本主義から、守った山伏は、里山から選ばれた人である。
その方のガイドで、本当に一年に僅かな許された日に、お入らずの森に足を踏み入れた。
それが出羽に色濃く残る、端山信仰である。
僕の住む部落《入り》は、アイヌ語で水の湧き出る場。
そこに入れ込んだ《入》は、此処がお入らずの森に入る入り口とも、示している。
この活動の重要な地元の仲間が住む横の部落《悪戸》。
これもアイヌ語で、水を蓄えた場。
そして、お山の結界としての扉を、名前に託している。
行基は三蔵法師から引き継ぐ唯識と観念を見事に融合させて、民の心を掴みながら、当時の利権まみれの国に反発しても、民と共に同じ国にいながら、全く新しいコミューンを全国に造って結果権力者も認めないわけにはいかなくなった。
高崎で聞かせて頂いた、山本太郎くんのお話。
熱意は認めるけれども、まだまだ浅いと、僕らは感じた。
きっとこれから降りかかる様々が、貴方を鍛え試すでしょうが、是非とも、もっと視野を広げて
動植物も含めた民主主義の筆頭を歩いて頂きたい。
そうでなければ、必ず簡単に潰される。
貴方がその気なら、何時でも山河を案内します。
きっと、新井信介さんが拘る、ヌナカワヒメの心がブナの木を通して、シリウスから貴方にその熱情を現実化させるためには何を成すべきかを必ず、伝えてくれることでしょう。
唯だ識のみというときの識とは、あなたや私、各人の識などではない。 あなたでも私でもなく、同時に、あなたでもあり私でもあるような誰かの識であるより他はない。
現実を把握した中で、イデオロギーを完全に自分の中に無くして、全ての識を捉えることが、ダ・ビンチコードであり、それは、政治から変えようという山本太郎くんにも、自然界の贈与の心が生み出す、新しいミモンギンセン資本主義を創ろうと動く僕自身にも、まだまだ越えていかなくはならない、識であると。
それが、アラヤシキを鍛えることになる。
それを知り得るために、僕は今日も行基の詩を生きる。
薪樵、菜摘、水を汲む。
これが、あなた(自然界全て)でもあり私でもあるような誰かの識を掴む、最短の方法であるからです。
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