あらえびすブログ

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新しいIターンを目指して 森と水源地の縄文トラスト 響命美緑

昨日は仙台の中小機構に、二回目の訪問。

担当の方も決まり、観光資源でのお墨付きにチャレンジしていく方向に、定まりました。

その先に、薫製やら様々が産み出されていく。

これが森と水源地の縄文トラストとしては、ピッタリな入り口でした。

そしてその後に、中戸川君と連れだって、R社のS社長のところにお邪魔して、森のオッパイが一気に変名される、情報を頂きました。

今日はお水の汲み出しの後に、早速この情報の重要な場に出向いてみます。

僕が何故、山形というよりも、この泉郷の地に引き付けられて行ったかが、これで明白になりました。



先ずはお水の命名。

《響命美緑水》

響命するミロクな美しい緑が創り出す伏流水と読みます。

副タイトルが《日本のモリス 行基の心》

この水を通してお伝えしたいドラマの、見事なバックボーンがありました。

詳しいことは、今日そのお寺に行ってからにしますが、今日のblogのなかで、触れないわけには行きません。

この行基というお坊さんこそが、空海以前に存在していた、現実と祈りそして自然をアートに繋げられた重要な存在です。

空海は774年生まれ。

この行基は、668年生まれ。

他界は749年ですから、接触はないでしょう。

行基は、杖で地をついて、見事に温泉の《場》を言い当てたり、インド中国とも融合させて、アート集団を京都奈良から引き連れて、この黒伏山や御所山の水源地と金をを、グローバル資本主義から守った方です。

僕はまだまだS社長に鍛えて貰い、ソロバンも持てる、ナチュラルアートビジネスマンになっていくことを、切に希望しています。

何故なら、今のグローバル資本主義はちがっても、新たな自然界も含めた民主主義と資本主義を生み出すことが、近い未来の扉を拓くからです。

現段階で、資本主義を否定しても、共産主義社会主義イデオロギーの失敗に行き着き、結果間違った労働者階級の反乱を助長させるからです。

かといって、そのような反乱が起きないようにと、労働者を管理監督することも、今では限界に来ています。

その為には見える形での、自然界と人間の心が豊かになる事でのGHPと、資本主義のGDPが違うベクトルではあるけれども、共に成長する事で描ける、フラワーオブライフ 32面体の球体の構造を創らなくては、なりません。

身体や感覚器官、無意識も含めた意識、心のあり方では、まだ75%体得でありますが、この形式での経済いおいてののソロバン勘定を、モノにしておりません。

そこがこの活動という、人生最後のチャレンジになっています。

モリスが労働者階級に、アートを手作りを持ち込み、生活がアートだと言う方向に行くことでの労働者階級の、全体を創ることを目指したように、それに他の動植物も含めた経済も含む全体を作り込まなくてはなりません。



愛子の手作りのおにぎり屋さん大好きです。

そのような場に、タロットでも出来るお婆ちゃんを常任させて、本当に美味しく安全なモノにも同時に包まれた、駆け込み寺的なコンビニ僕は昔から東京に出してみたかった。

ジャンクなモノ、添加物まみれもあえておく。

あくまでも、個々の感覚を戻していくことに期待する。

押し付けはなし。

若い高校生のお兄ちゃんは、お店の前にある、人力発電機で発電すればおにぎりは貰えるような遊びもつくって、動植物から見た、一方向にしか今のところ成長出来ていないが為に、様々な問題が噴出してきた人間界の出来事を載せた、熊新聞やら、ブナ新聞等も日本経済新聞等ともに、おいてるようなお店です。


これは、十年前に涌き出た事ですが、間違いなくそのようなショップを、シャター街に出していきます。

ここには、アニミズムブランドのアパレルも、出しますが、人間のマネキンはなく、スーツを着たブナやガネーシアや巨大な薔薇が、マネキンになっています。

カフェは、幾何学で創られ、クラインの壺になっています。

天井にも壁にも椅子やテーブルが張り付いていて、平面思考から立体思考へJUMP出来るモノに仕上がっています。

S社長には、又アーテイストのマスターベーションと、愛の一喝を入れられそうですが、若者の高尚な創造による音楽の文化は、見事にこれをなし得てきました。

僕らの世代で言えば、ピンクフロイドやイエス。

そこにこそ祈りと経済が生まれる可能性を感じています。

アムスは、そのような野生とインテリが見事に融合した、輩がヨーロッパの新しい経済を引っ張っています。

去年上海で知り合った、中国人にも、このタイプは見事にタコボウで、新しい経済を作りだしていました。


行基は、まさにそれを体現して、日本に貨幣を生み出した、人のように感じています。

S社長が見付けてくれた、行基のこの詩が、僕を引き付けました


《我が得しことは 薪こり 菜つみ 水くみ つかへてぞ 得し》

これは水のボトルの裏側に、載せますが、これこそ自分がやろうとしていることです。

行基は、前世で。

僕は今生で、彼の前世と今生を、融合させて生きたい。

この詩を現代文に直すと、こうです。

因みに詩の始めには、《法華経を》という言葉がのっていますが、中沢新一さんが仰るように、例え縄文という言葉を使っても、本気でその時代に思考をワープさせて捉えなくては、全てが都合のよい解釈に陥るので、きっと今の法華経とは、存在する意味合いが違うので、あえて省きました。

法華経》を例えば《人のいきる道》に直すと、宮沢賢治+モリスです。

人の生きる道の教えを(法華経の教えを)私が得たのは何故かと言うと、前世において薪を樵り、山菜を摘み、水を汲んで、阿私仙に仕えて得たのである。

阿私仙とは、高僧でしょうが、あえて僕は高次の自分、若しくは自然界も含む全体神と捉えてみたいです。

もう一度書き直してみると、

人の生きる道の教えを私が得たのは何故かと言うと、前世において、薪を樵り、山菜を摘み、水を汲んで高次の自分が知る、動植物も含めた民主主義に所属する私というたち位置で、全体神(宇宙神)に仕えて生きることで、身に付いたのである。

猿には劣るけれども、見られた皆さんがよく驚かれる、六〇度の斜面をさっさかさっさかと登り下りして行けるようになったのは、薪を切り、斧で木を倒し、水を汲んで、菜を摘むことで、自然は死なない程度に、全ての生き物をバランスよく活かす事を体で知ってからです。

そこから生まれる経済に必要なソロバンは、きっと全く異質な構造のモノである。

そして、それは、今生で先ずは、薪こり、菜つみ、水汲みから、DNAの記憶を叩き起こすしかなかった。

そして、その蓄積で、途切れていた新たなニューロンが繋がり、この今生の現実の場で今この行基という、アートなの僧侶を知ったことは、やはり偶然ではない。

彼に呼ばれているとも思う。

空海がもしも、この東北に先に足を踏み入れていたら、きっと熊野は拓かなかったとの、直感を得た六年前。

そしてここにある神話。

御所山という名前。
(因みに御所山とは、他にもある。山梨福岡京都等。皆金山であり、伏流水の涌き出る、常磁力性の岩山である。)

そして、今回知ったこの山を見るように、もうひと鳥海山を見るように、建てられた慈恩寺

間違いなく山を守った。

檀家も持たずにこの地で金と水を守り、アートな活動の寺を国の冠を頂きこの地でなし得た。

苛酷な労働条件から逃げるかたがに、場と仕事を与え、職人を集め、彼を認めざる終えない方向に事が流れ、聖武天皇さえも行基に傾倒を深めさた。

彼が空海以前に社会事業を実践したのは、大乗仏教の菩薩道、即ち自利他利の隔たりをなくして、自然界も含めた全体を救済しようとの試みからである。

未熟な自分には、この行基の見えない力のバックアップが、今こそ必要な時期であり、行基と共に、この地を選んだ意味合いを強く感じないわけにはいかない。

ここには、時間を越えた何かの壮大な意思があると感じる。

よって、666(ミロク)での菩薩を奉ってあるこの、ゴダイゴ天皇共通じる、ダイゴ町にある、慈恩寺は、別な意味での山形の中心である。

即ち、黄色ユダヤの痕跡。

ここが出口王仁三郎のミロクの解釈とは、一線をはくす。

行基は、集って来た全ての人を才能に応じて指導し、全てを善に向かわせたとある。

僕が目指す、森と水源地の縄文トラストからうみだされる、食える福祉である。

さて、今日行基のもとに訪れる前に、ミロクを整理したい。

イエスとも言われていますが?


僕がミロクとは、何か、他の方はどのように感じているかと、探していたときにあった、僕にとってのベストアンサーを載せます。

お借りします。



仏教では釈迦牟尼様が入滅されてのち、どんどん正法が廃れ、いづれ末法の世になる。

そこに弥勒菩薩が現れて衆生を済度してくださる。

これが釈迦入滅後56億7千万年後の話とされています。

今、スピリチュアル系ではマヤ暦による2012年説がかまびすしく、それと日月神示の五六七(みろく)がリンクして「今、まさにミロクの世が到来せんとしている」と暗黙の了解があるようです。
(ここが行基ののミロクとは、まさに違う。言い換えれば、ミロクを解く重要な鍵が、行基慈恩寺にある。三蔵法師空海も訪れたであろうこの地に。それもこの地での半径十里に。観念論を否定せずに、心と共に発展させていく。そこから生まれたマネーに戻すこと。だからお金の否定では、何処かに必ず無理が来る。)
一体ミロクの世とは?日月神示の言葉を借りれば”神仕組み”がこれから起こると。

しかしそれは人間はもちろん多くの神々にもわからない仕組みだそうです。

つまり人智を超えたもの。

もし今までの観念の延長としてのミロクの世、つまり平和で争いがなく、天災も起こらない世を願っているのなら、それはおそらく違うのではないかと。

というのは、人々がこうあって欲しいと願う世界は人それぞれだからです。

たとえば、権力を欲しいままに振るいたい人はそういう世界がミロクの世だし、ひたすらグルメに走っておいしいものを追求している人たちはそれが得られる世界がミロクの世でしょう。

今後大災害があって肉体を捨てることがあるかも知れません。

そうなったときにどういう世界に赴くのでしょうか?

そう、2500年前に仏陀釈迦牟尼様がすでに説いておられます。

地獄、餓鬼、動物、人間、阿修羅、天、と。人を傷つけることが好きな人にとっては”地獄”が天国です。

おいしいものを貪ることが大好きな人は”餓鬼”が天国です。

こんな風に想定している世界はバラバラでしょう。

たとえば、一日青汁一杯で楽しく健康に過ごしている人にとってはグルメこそ地獄でしょうし、反対にグルメの人にとっては青汁一杯など拷問に等しいでしょう。

では、”天”が素晴らしいのでしょうか?

すべてが満たされていて暑くもなく寒くもなく、食べたいものはいつでも手に入る。

何の苦労も要らない。

まさに天国ですが、果たして本当にそれがミロクの世でしょうか?

そこには何の苦労もないがゆえに満ち足りていて、向上心や反省心が芽生えません。

自己を向上させようという欲求がなければあとは堕落あるのみです。そういう意味では人間界こそが意義深いと私には思えるのです。

仏教ではこの世を指して”一切皆苦”(いっさいかいく)と教え、この世には生老病死しかないじゃないか。これを苦と言わずして何を苦というのかと説かれています。

えっ?じゃあ、人間には苦しかないのか、と。

いいえ、ここが仏教のパラドクシカルなところ。

本当に苦しかなければ、そう説いてみたところで何の益もありません。

この苦が実は幻影で、その幻影の世界から抜け出す方法があるんだよというのが仏教です。

それは六波羅蜜かも知れないし、四諦八正道かも知れないし、ひたすらマントラを唱える密教かも知れませんが、とにかく抜け出す方法があるんだよということです。

つまり人間界を苦界とするも天界とするも心次第ということです。

そう、餓鬼界も地獄界も同じ幻。自分の心が創り上げているだけです。

人間界には適度に苦と楽が混じっているがゆえに向上心が生まれるのです。

つまり私が思い描くミロクの世とは、舞台装置あるいは修行場であるこの現実世界を破壊せず、かと言って常春(とこはる)ではなく適度に苦と楽が共存している世界です。

実はここがミソです。”苦と楽が共存”と書きましたが、実は苦あるがゆえに楽があり、楽あるがゆえに苦があるという相対世界なのです。

たとえば生まれながらに目が見えず真っ暗な世界しか知らない者に光の概念を教えることは出来ません。

逆に光しかない世界では闇が何かはわかりません。

これらは絶対の世界なのです。

たぶん絶対の世界には言語もないでしょう。

言語とは何かと何かを区別するために編み出されたものだからです。

区別という概念すらない世界に言葉の存在意義はありません。

となると思考すら必要ありません。

究極には存在すら意味がありません。

もしミロクの世が絶対的なものであれば、それは不可知でしょうね。

認識のしようがないのですから。

それを世の中ともし呼ぶなら、そんな世の中が望みでしょうか?

いや、その世界に入ってしまえば望みも何もないでしょうが(笑)。

日月神示によればミロクの世は人智を超えているので、こういう絶対の世界かも知れませんが、私はやはりそうは考えていません。

もしミロクの世が近いとすればその兆候はすでに現れているハズです。

たとえ九分九厘参ったところでのドンデン返しがあるにしてもです。

それは例えば、青汁一杯だけで生きていける、あるいは言葉を交わさずとも以心伝心で伝わる、他者との争い事は極力避ける等です。

ならば現代を見回してみたとき、この世界を大きく動かしているのは何でしょうか?お金?まあ、それもあるでしょうが、もっと根本的には食料とエネルギーだと私は思います。

しかし例えば、青汁一杯なんてものじゃなくて大気中のプラーナ(エネルギー)摂取だけで生きていけて、テレパシーで意思疎通ができ、テレポテーションまでできるならエネルギーや食料は必要でしょうか?おそらくほとんど要らないでしょう。

或る意味でとっても静かな世界だと思います。

そこではまだ残っている自らの心の汚れを落とすべく修行している人たちが集っているのではないかと想像します。

そういう世界が私にはミロクの世に思えるのです。

もちろん魂の進化には程度の差がありますから、まだまだ食やお金にこだわっている人はそういう世界がミロクでしょうからそこで修行を積むことになるでしょう。

つまり世界が分かれるのではないかと思います。そういう意味で人口が減るというのは当たっていると思います。

それぞれの世界に分かれるのですから。

だから今のこの現実の世界の延長としてのミロクの世を念ずることは私には難しい。

さて、ここからがパラドクシカルです。

修行に適した静かな世界を夢想すればそういう”地獄”に堕ちます。

実はこれが自己保身だからです。

だから今のこの現実の世をいかによくしていくかに尽力することこそが唯一そこへ至る道だと確信しています。

”今”をないがしろにして未来はありません。

なぜなら過去も未来もないのですから。あるのは”今”だけだからです。













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