あらえびすブログ

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新しいIターン お山繁盛コーポレーション

本当に、北は冷夏です。

そして、関東以南は、とっても変な暑さ。

確実に、地球は次の段階にいるようです。

やはり定住という一万年は、終わりの方向に向かっていると感じます。

そのなかで、人々は慣れ親しんだ様々な己の経験値と直感の狭間で、もがいています。

ある人は更に、収入をあげることが生き残れる方法と捉え、又ある人は農耕や自然回帰に向かう方が生き残れる、又ある人は科学技術をエコに発達させる事が生き残れるとモガク。

僕にも決定打はない。

この活動が果たして、打開策になるのかも定かではない。

けれども、一つだけはっきりしていることは、心の領域を広げて開拓することが、そろそろ終わりを迎えているのではないかと言う事。

もう一度、広がりすぎた心の領域に、体が伴っていなかったという事実に、立ち返るべきではないかと言うことです。

体が、とてつもなく大きな自然の流れに、身を任せてしまったとき、心は始めて、横への増殖をやめて、縦への新たな増殖を試みるのではないかと、感じているのです。

消費者は横への増殖を生み出すと、僕の体は捉えています。

そして新浪費という新しい経済への参加者が、縦への増殖を可能にしていくのではないだろうかと。

それこそが、動植物も含めた民主主義という、新たな立脚を可能に出来るのではないだろうかと。

未熟な自分は、お金儲けも下手くそだし、グローバル資本主義の中での成功等には、そもそも向いてはいない。

ゆえにこの社会構造では、一生涯未熟者。

けれども、どうにか自然という分かるようで分からないモノと、ならんで歩く事が、とっても心が平穏であり、体は気持ちよく快楽のなかで、伸び伸びと動かせる。

それは、伏流水を飲む時の感覚と、やはり一体である。

水道水をより安全に飲むために、日々浄水器の質を高めるように努力なさっている方には、勿論ご苦労様と言いたい。

日々、科学技術を高め、人工的に電位を高めるように研究開発されている方にも、勿論ご苦労様と言いたい。

ただね、そこにある気持ち悪さは、自然を知り尽くそうと言う無理が、それを又横への心の草原のなかで、見渡せるようにしようとしている視点が、僕には快感ではないと感じる事実です。

平面化構造の場での立脚は、どうしても権威が生まれる。

鳥を飛べなくして、魚を泳げなくして、森を管理監督して、人間界のルールの土俵で、誰が優位か比べても、絶対に自分の全体と出逢うことは出来ないはずだよねと、感じてしまう。

何故左脳がここまで、発達したのに、右脳が取り残されて、バランスを失ったか?

右脳は階層の違うものを縦の世界観で繋げて、理解しようと欲求する。

しかし左脳は、横の世界に置き換えて、それを強引に、理解しようとする。

これが、キアスムのY字感覚なのではないだろうか。

その中道をつくるとき、どうしても揺り動かして、もう一度バランスを整えようとする。

まさに自然はいま、それを当たり前にしはじめているように、感じるのです。


左脳が感じる隙までの暇。

右脳が感じる暇は、同意語ではない。

それなのに暇=退屈と僕らは決めつける。

左脳が暇を埋め尽くそうとモガク。

けれども見つからない。

そのときに退屈と感じる。

心地よい風にふかれて、物思いにふけっているとき、人は退屈ではない。


國分さん曰く、暇とは、なにもすることがない、する必要ない時間をさしているのであり、暇は客観的な条件に関わっている。

そして退屈とは、何かをしたいのに出来ないという感情や気分をさしており、主観的な状態を指しているのでである。

即ち定住化は、暇という客観的な条件を人に与え、それによって、退屈と言う主観的な状態に人は捕らわれてしまったのだと。

暇に陥ると、必ず退屈とは限らない。

そしてこうとも言える。

退屈しているとき、必ず暇のなかにいるわけではない。


暇があると言う事は、余裕があると言う事。

では、労働を殆どしないで、利子で生活出来る有閑階級のみを指すのか。

しかし、その位置付けは、もっと大きい。

即ち、原始未開状態の平和から、何らかの理由で戦争や略奪を好む存在が生まれ、そこに現れた有閑階級が所有権を生み出していく。

そして、暇を見せびらかす為のツールが、ビジネスを支えてきたのも確かである。(僕は想う。今はもっと悲惨だ。そもそも、より良く労働させるために、労働者階級にも暇を与えた。しかし、高額な暇潰しは、そもそも出来ない。そこを又ターゲットにして、ビジネスの息の根を延命させた。)

途中で現れるメイド等は、暇を見せびらかすモノを維持するために雇われる。

これは更なる、不平等を、生み出した。

そして、ブルジョワは、凋落していく。

そして、ステータスシンボルとしての消費が始まる。

家に入って始めて解るような、ステータスでは、多くのぎゃりーに見せれない。

よって、何を着て、どんな車に乗って、どんな家に住でいるのかという、速効性のある、シンボルが消費を支えてきた。

妻が主人の顕示欲の役割を果たす。

メイドがいると言うことが主人の地位を現す。

その役割が妻に変貌した。

これは、ヴェブレンの考察である。



しかしヴェブレンの考察には偏りがある。

全てを顕示欲で片付けているからだ。

これに異議申し立てしたのが、モリスである。

一般大衆の創造性を嫌うヴェブレンに対し、モリスは、芸術こそが幸福をもたらすと考えた。

これで作並にある、とっても気になっていたモリスと賢治の家という、森のギャラリーと僕の出逢いが見えてもきだした。

続きは又明日。

これから消費天国、東京に行きます。






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