新しいIターン お山繁盛コーポレーション
昨日は、木曜日からのツアーで配るチラシを、百部作り、そのあとに梅ジャムと梅干しそして梅酒を作製しました。
天候不純で、ダメだった今年のさくらんぼ。
同じく、梅も長雨でスッカリと身が落ちてしまいましたが、アラエビスホルモン流儀にとっては、有り難い恵み。
相当な数の製品化出来ない梅が集まり、今年は会員様に、伏流水からのお届け物で、梅ジャムをプレゼント出来ます。
二年目の会員様には、秋には梅酒もプレゼント出来ます。
そして、お空にはY字の雲が。
さて、今日も定住化以前を検証していきたいと、思います。
この検証は、今は世にない、アウトロー的なイノベーションを、どのように現実化するか、その為にどのチャンネルに向かって、発信して行くかの見極めになって行く、重要な考察であります。
直立歩行して、遊動生活を399万年生きた民が、定住化した1万年で経験した出来事変化は、相当なものです。
農耕牧畜、人口の急速な急増、国家文明の発生、産業革命、情報革命!
もうこれは、革命であります。
考古学者西田正規さんが仰る、定住革命です。
その事が我々の生活に、新たな当たり前を僕らに押し付け始まる。
この事に馴染めなく、多くの先住民が、病気で亡くなっていった。
例えば南アメリカ南端の先住民は、洗濯の習慣がなく、衣服を強要されてから、洗濯をするなどという当たり前がないことで、病気が蔓延して、絶滅しかけた。
野性動物に、服を着させるようなもの。
遊動生活の民には、掃除の習慣がない。
トイレもごみ捨て場も要らない。
これは、不法投機や分別の問題を考えるときに、人類の元々の習性としての当たり前から、思考を立脚させるために重要な出発点になる。
下水も然り。
里山暮らしでは、未だに穴を掘って用を足し、ある程度になると、土をかけて別な場に場を移している方がいる。
伊豆で以前行った六十人の森林サバイバルワークを思い出す。
食糧を殆ど持たずに、枯れた水源地を見つけて、そこから上澄みの水を掬い上げるところから四日暮らしていくのですが、トイレが一番勉強になりました。
穴を掘ってトイレを作るのですが、六十人ですから、直ぐに場所を移さないとならない。
二年後に訪れると、そこはまだ、下草もはえてはいないのです。
これが其々が散らばって用を足していたら、充分に土に栄養分として戻れることが、出来たのです。
如何に定住化が、自然にとっては、負荷があるかの証明です。
定住化はさらに、墓を必要とさせ、定住化する墓ゆえに、霊界の観念も生まれた。
当然苛めに耐えることも、定住化から始まる。
色々な人間関係のゴタゴタも、水に流せなくなってしまった。
結果沢山のルールが必要になる。
そして法律が生まれる。
権威の体系も育ち始める。
遊動生活の民には、食糧を均等にわけて、道具も貸し借りする。
この事で不和が避けれるとの、人間関係良好の技術も持っていた。
過度の賞賛も避けていた。
権威のないコミューンを維持するためである。
頭がスコブル良い。
昨日も書いたが、かといって今直ぐに遊動生活の民になろうといっているのではなく、定住化では生きていけない時が環境異変として始まったんだから、定住化の当たり前を外して、徐々に生活形態をシフトしていくべきであると、声がけして其を実験しながら、精度をあげていける場を創ろうよと、声がけしているのです。
暫くは食糧の貯蔵に目を向けるでしょうが、寒冷化で例えばツンドラが南下するほど、大型動物は住みやすくなる。
貯蔵といっても、イヌイットのように、セイウチを反転させて、腸で縫い合わせ、発酵させる。
腐るような暑さはないから、至ってシンプル。
ここで事業化しようとしている、ピクルスと河魚や野生肉の薫製商品も、何れそこを通過するであろうとの、予測からである。
イヌゾリや農耕馬、ブラウンスイスの放牧によるチーズの作製も、そこを見込んで、経済や流通、エネルギーが動いていても、停まっても、変わらなくても済むスタイルの確立でもあります。
さて、遊動生活では、沢山の財産は、持ち運べない。
一方で、定住化しても暮らせるためには、不作でも生きれるように、貯蔵して私有財産を生み出し、結果格差社会が始まった。
そしてピラミッド支配構造が生まれた。
コミューンの権力者の登場である。
そして、持つものは、奪われないように、法の縛りを強化する。
そして定住化で、生まれたのが《暇と退屈》である。
遊動生活の民は、新しい地に移動するたびに、潜在能力が活性化され、充分に思考をえ、ニューロンを進化させた。
定住化での、変わらぬ風景は、感覚の刺激を皆無に近づける。
東京の今はまさに、変化のない風景。
そして、本来持っていた探索能力の使い場所を喪失する。
よって、探索能力の新しい使い場を求めて探す。
物理的な空間を移動できないと分かった脳は、心理的な空間を拡大しその中を移動する。
スピリチュアルブームはまさにそれである。
そして、殆どが、心理的な空間の隙間から、奈落にも落ちていく。
アヘンもそこにつけこんだのであろう。
車のモデルチェンジも然り、アカデミックを持たないデザイナーブランド以外のアパレルも然り、安売りの電化製品も然り、テレビ番組も然り。
怒られるけれども、世界遺産も然り、オリンピック誘致も然りであると思うのです。
心理的な空間に納まるものを見つけれない時、退屈にはまりこむ。
そして、その退屈は、定住化生活がつくりだした、心理的な空間として感じる空虚感。
この隙間を埋めることが、定住化での重要なアイテムとしてあることがわかる。
ここに今の経済は依存して、消費の奴隷を作り、搾取している。
僕らがアートだ、祭りだ、趣味だ、スポーツだ、勉強だといっているモノは、遊動生活の民のラスコー洞窟の絵画などとは、まるっきりの違いがある。
遊動生活の民のアートは、客体としてのギャラリーを必要としていない。
そして、あり得ない危険な場所で、ワザワザ書いている。
國分さんが仰るように、退屈を回避する場面を用意することが、偽のサービスを作り上げ、人類に異質な展開をもたらす原動力となり始めたと、感じるのです。
遊動生活では、自らもてる能力を充分に発揮できる場を、何時も持っていた。
遊動生活民は、肉体的、心理的な能力を十二分に、発揮できる場を持ち、強い充実感をもたらした快楽生活を手中に収めていたであろう。
浪費できる場を有していた。
消費はなかった。
消費に対する浪費ではなく、アカデミックな浪費。
これを、僕は新浪費と呼びたい。
満足な快楽生活を生み出すのは、新浪費が可能な場である。
新浪費とは、清冽な終わりが訪れる費やしである。
即ち、遊動生活では、人間の潜在能力にとって心地の良い空間が、身近に満たされていた。
定住化生活では、毎日、毎年同じ事が続き、同じ風景が広がる。
郷ひろみの、家ぐらいのお金をかけないと、違う風景さえも、生活に取り込めない。
都市部のアパートから見える風景を考えて見よう。
勿論、細やかな、中央線の先に沈む夕陽に心が和む時もある。
けれども、僕らの心理的な空間を埋めることは出来ない。
アラスカでカヤックを漕ぎながら、大きく跳び跳ねる鯨の先に沈む夕陽を捉えた事があるのなら、鯨が中央線になっても、充分に心理的な空間を満たすであろうが。
その経験を重ねれる体験を持つものは、稀だ。
あったとしても、重ねれることが不可能なほどに、消費の風景が邪魔をする。
人間本来の能力が行き場を失い、能力を十分に発揮することが出来なく、退屈が頭に張り付く。
そして退屈を紛らせる必要が、恒常的な課題となってしまった。
そしてその退屈を紛らせる場に、大量の電力が必要になる。
水力で足りているけれども、もっとお金も必要だ。
遥かに、お金が稼げて幸せになりますよ。
過疎地で仕事もないし。
そして代わりに暇を潰せる、様々な施設も、作って差し上げましょう。
まだまだシナリオは、足りないけれども、原発を考えることは、僕らの暇と退屈を考え直す所から始めるという、國分さんの三十九歳の若き視点に、多くの根本を見直すヒントがあることがおわかりいただけるであろう。
國分さんは言う。
定住革命は、パンドラの箱であったのかもしれないと。
そこから数えきれないほどの災いが生じたのであると。
そしてそれは、パスカルのような、信仰心の厚い方は別として、暇潰しに宗教を使えない多くの民は、遊動生活とは、
別な方向を見いださなくてはならない。
消費で命まで削っている今を打破するために。
子宮形骸ワクチンも消費の現れである。
ハイデッカーのこの言葉を考え続けたい。
「私たちは、住むことをはじめて学ばねばならない。」
國分さんと一致する、
住むとはどういうことなのか?
人間はどう住むべきなのか?
この答えを様々に実践実験して、近づいていこう!
これがお山繁盛コーポレーション アラエビス(新夷)が目指すことである。
それが中沢新一さんの仰る、動植物の利害をも含めた民主主義《ドングリと民主主義》という実践であると、僕は思うのです。
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