あらえびすブログ

あらえびすのブログです。各プロジェクトや、日々のこと等情報発信。代表東出融の過去記事、Facebook発信のまとめもみることができます。

アシンメトリーな脳はそれだけで旅をする運動だ 7

第一章 その6  
             ベーリング海峡を渡る

 真夜中に「水」と言う重曹的に重なりながら、全く違う時間軸を様々に多面的に持つ海に身体を預けた。
都会と限界集落そして動物、植物の霊的世界を今同時に生きている自分には、重曹的な時間軸に不安はない。
一定の数値だけが流れる都会。
しかし多面的な数値が入り乱れる限界集落と霊的世界。

 数値上ではパドリングの回数と距離を計ることは可能である。
ましてや風がないベタ凪ぎでは。
しかし其処には入り乱れる海流がある。
気を抜けば北極に流されていく。
気を抜くことは許されない。

都会だけに暮らしていたとき、自分にはオンオフを切り替える事でどうにか成り立つ術を身に付けていた。
しかし限界集落と霊的世界の狭間での暮らしにはオンもオフも区別できない何かがある。
其れが生活だと言う実感がデーンと横たわっているのだ。
だから気分転換等と言う物は其処には存在しない。
だから一分一秒生きていると言う実感が抜け落ちることがない。

愛犬のアラスカンマラミュウトの「花」と散歩しているときも、此方が熊の足跡を発見すると同時に嗅覚で其れを察知している。
都会で犬を飼っているときには全くなかった愛犬との共有の瞬間。
此処からしか絆など生まれるはずもない 見せかけの絆や愛は身体性が抜け落ちている。
僕は今漕いでるカヤックにもいつ暴れるかもしれない海にも絆を感じるのである。
絆と言う言葉を越えた体感である。
そしてこの距離を時間を漕ぎ続ける身体そのものにも絆を感じ始めているのだ。
身体は知っている。
越えれるもの、越えれないものを。
観念で頑張るときに不安や挫折が生まれる。
けれども身体が自分を乗せて突き動かすときは、もうなし得ている感覚に近いのだから自分は自分の身体に乗るしかないのである。
身体が呟く、大丈夫任せておきな。
命ってそうヤワではないよと。
僕はカヤックに乗っているのではない。
カヤックさえもこの身体にしたがっているだけなのだ。
僕は身体と言うカヤックに乗っているのだ。

身体とは何時だって早い。
眠いときに逆らえない。
食事も限度以上食べれない。
衣服も必要以上に着ることは不可能だ。
身体は所有する気がまるでないのである。
如何に今まで身体を阻害してきたことか。
必要以上の付加価値で所有して偉ぶっていたことか。
その度に自分は自分の身体を裏切っていたのである。

 限界集落と霊的世界の狭間には音が溢れている。
其は身体が捉える自然界の唄である。

カヤックの側で発する水の音も毎回毎回違う言葉を僕に突きつけてくる。
所で何れぐらい漕ぎ続けたのであろうか。
数値を知ろうとは身体が欲していない。
距離ではない。
身体だけが筋肉の強張りだけが知っている距離である。

僕は伊豆の台風直後の七時間のパドリングと今を身体で測定した。
今はベタ凪ぎ。
この凪ぎならばこの強張りは十一時間を越えているはずである。
ならば微かに陸が見えるはずである。

そのときであるザトウクジラがバブルハンテイングで僕のカヤックギリギリを空中に飛び上がってきたのである。
油断していた。
暗闇だと言うこともあるが海底から立ち上がる鯨のバブルを感じていなかったのである。 しかしこの霊的世界を今味わうしかない。
僕はパドルを休めてその光景に身体を預けた。

その時身体のなかに微かな明かりを感じた。
その明かりは紛れもなく自分の中で輝く北極星であり、届ける光oneであり、輝く光であり、愛であった。
その時に北海道で登山途中に至近距離で熊に遭遇したときを思い出した。
その時も時間が止まっていた。
しかしその時に身体の中には水は流れ続けていたのである。
その時、熊も自分もきっと同じものを見ていたのであろう。
そして今鯨と自分も同じものを見ていたのであろう。
そっと目を閉じたときに多くの眼差しが僕に光を放っていた。
その奥底に日本に残してきた核になる人物の優しい眼差しがあったのだ。
その人物の理解がなければ今僕はこの鯨とも出逢ってはいないのだ。
鯨の目がその人物の目に添加され更に見たこともあったこともない多くの人間や自然界の目が此方に光を送っているのである。
僕はそっと目をあけた。
其処には朝日に輝くアラスカの大地が広がっていたのである。



Android携帯からの投稿