あらえびすブログ

あらえびすのブログです。各プロジェクトや、日々のこと等情報発信。代表東出融の過去記事、Facebook発信のまとめもみることができます。

アシンメトリーな脳はそのままで旅をする運動だ 3

 第一章  その2          
    旅に出るとは感覚器官が求めている未知との出逢いの扉を開くこと

 旅に出始めた自分は、北への行路を何処で選んだのだろうか?
そしてその選んだ脳内記憶奥底に横たわる涅槃像が現実の世界に認証しようとしている映像はどんな風景なんだろうか?
この行路には此処をお通りくださいなんて言う、アスファルトも砂利道さえも勿論標識も存在していない。
そして「北」と言う文字に潜んでいる涅槃像が僕に気付かせようとしている「もの」は一体全体何でありどんな意味を持っているのであろうか?
疑問は深まるばかりである。
しかし決して歩む事を停めては見えない。
動いているから見えるはず。
自分が動いているからこそ動かない中心が感じ取れるはず。
だからこそ中心が先ではない。
動きに溺れてはいけない。
動きで生まれる空間に一点の中心を知るために動いているのだ。

 歩むとは歩行運動に限定した事でもない。
視覚も聴覚も嗅覚も触覚も間違いなく歩んでいるのだ。
感覚器官は間違いなく旅をしているのだ。
今はまるっきり感覚器官が旅をしなくなってしまったのではないだろうか。
僕はこの感覚器官で「北」と言う生き物になって、世界を見定めようとしているのではないだろうか。
自分にとって「北」とは何か。
其を指し示す北極星とは体にとって何処なのか!と言う身体における宇宙を知ろうとバックパックを背負って旅に出たことだけは今ハッキリとわかり始めているのである。
まるでカリブ―の壮大なアラスカでの移動のように!

北極星は軸上に位置するために実際は動いているにも関わらず我々には止まって見える。
僕はその止まって見える様に表現して存在してくれている北極星のお陰で、動き続ける事が可能になる。
動くこと即ち生きること。
ならば自分の中に北極星がなくてはならないのだと感じる。
此れから一万三千年もたったとき北極星北極星ではなくなる。
今のこと座にあるベガ星が北極星と呼ばれる。
何故なら中心は微量でも二万五千八百年の周期で移動しているからだ。
では僕の体の中で北極星も周期で変わっていくのであろうか?

シュタイナーが言われた七年×三の二十一年周期事に変化する人生の価値観。
此処に周期事に次の立ち居ちを求めて旅に出なくてはならない周期の鍵が眠っているのであろうか。
そして世の中は七十年周期で様々が動いていると言われている。
此は幕末、終戦、そして3.11とハッキリと現れているのだ。

 3.11で立ち止まりながらも今僕は今の北極星に向かって駒を進め始めた。
此れからの中心を得るために。
そして其はきっと第三の目だけが認証できる中心なのであろう。
僕の中で分断して弾け散った分野の集積が今もう一度中心の北極星を便りに北に集まり始めた。

小学校三年生から大学の山岳部で登山をしたり、躍りの振り付けをしたり、体の使い方を探究して伝えてきたり、大好きな料理をしたり、山伏の修行をしたり、カヤックで海に出たり、農等の第一次産業に目が向いていったり、東京離れ伊豆を経由してこの山形の限界集落にたどり着いたり、家族が崩壊したり、天変地異が度重なる時代に生まれたり、エトセトラ。
その様々な破片が今ジグソーパズルのように一枚の絵を描こうと必死にひしめき合いもがいている。
原型さえも記憶になくなってしまった全体としての自分に帰り、其所からもう一度南下するために。

この旅で越えなくてはならないベーリング海峡はその折り返し地点に当たる。
此処でラファール猿人から進化した我々の祖先はアラスカでどんな北極星からの伝言をキャッチしたのであろうか。
今我々が突きつけられている大きなる価値観の変革は四足歩行から二足歩行に移行した彼らに比べたら遥かに小さな変革だ。
越えられないはずはない。
僕のこの旅がベーリング海峡を渡るときそしてアラスカからの南下を目指すとき ジグソーパズルは五十四年ぶりに一枚の絵となっているのであろうか。
僕は今モンゴル高原を北上している。
永遠に続くように感じる壮大な草原を北極星に守られ導かれながら。
星の明るさに映えるワイルドフラワーの美しさに、それと同じぐらいの数で天界にひしめく星ぼしに見守られながら。



Android携帯からの投稿