あらえびすブログ

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新しき蝦夷 銀河縄文原人が創る 皇の時代の宇宙国建国までの舞

昨日は、帰ってから一回目の水汲みに行きました。

形状とその回りで動き続けるモノを、関連して観察し続ける行為が、僕らの進化に与える影響は、はかりしれないモノがあります。

この事が、重要であったと気づいたときに、このお山が禿げ山になってしまったら、とにかく申し訳ない。

此れから大きくなる子や、生まれでる子に申し訳ない。

その結果、山と伏流水と人体の関係を探求する事に。

いつのまにか気づくとその面白さにはまってしまった。

都市に住んでいた頃、中沢新一さんを読んでも、ここまでフィット出来なかった。

けれども今は、一字一句が全てフィットする。

 
現実世界と神話的世界を繋ぐのは、自然界にしか出来ないのだと僕は感じるのです。

登山や綺麗な山だ河だという、現実側での視点ではなく、それを繋ぐ自然界の位置から両方を対照的に観る。

現実が創る歴史的な時間と、神話的な時間をいったり来たりしながら。

それが捻れループになっていく。

レビーストロースが言う「野生の思考」がこの状態を指す。

一方で今の僕らは「家畜の思考」状態である。

家畜の思考は線形である。

僕らの心にも自然界の内にも捻れ交差ループ構造が実在している。

だから山を見て海を見て野性動物を見て、僕らは見いってしまうのでしょう。

ホッとする郷愁を覚えるのは、心の構造が線形リニアではないからです。

新幹線が疲れるのは、きっと電磁波だけではありません。

心の構造とあまりに解離しているからでしょう。

そして僕らの身体は、心のままに動けない容器になってきています。

何故なら線形リニア都市構造に、身体の自由度が乗っ取られているからでしょう。

そして随意筋を動かす、リニアの思考のみを使って、体という乗り物を日々動かしている。

心では5%の心に95%の心が乗っ取られている。

不随意筋が動いたときに、力や体力はいらない。

動いているときに、割れた腹筋等意識をしない。



最近世界に照準を合わせて、個人ワークを受けられているFさんはこの前のコンサートで、見事に筋肉痛がおき始めたそうです。

僕のワークは、座学のみの時でも、不思議に筋肉痛が起きます。

これは、不随意筋が起こしている筋肉痛です。


今僕らは95%の捻れ交差ループ構造の心を無視して、人間が言語的な意識だけで出来ていると考えたり、論理で割りきってしまうことが可能だと考えたりすると、僕らは、シンプルにして複雑な心と自然の構造を抑圧して、ただ自分が操作しやすいモノにそれらを還元*変形してしまいだしたと感じます。

今の都市型文明はその抑圧によって、自然界や自然な心に取り返しのつかない損傷を与えてきました。

中沢新一さんが講師も務められている、「新しい地図を描く《仮想地球研究会》」の試みは、まさにそのヒントになります。

渡り鳥の地図、飼い犬が感じている地図、広葉樹の地図、縄文の地図、富山の薬売りの地図、そして現代のリニアな生活の為に作られた地図、など全てを重ねて観て発見する。

それは心の構造と自然界の構造が同じであることに帰着するはずです。

南方熊楠はまさにその実践者。

ヨーロッパで科学を学びつつも、その最先端で早くも科学の本質をつかみとり、その限界に気づいてしまったのです。

そしていち早く野生の科学に向かわれた、先人です。

アニメ「獣の奏者エリン」は、まさにその此れから僕らが手にしないと生きれない、野生の科学そのものです。

今のスピリチュアルに対する疑念は、因果応報の法則を語るからです。

不随意筋が、動くとき理由はない。

熊楠は、心をバーチャルな空間とみなして、心の中に充満している行為の芽の全てが、現実世界の中に現れて、他の事物と触れあって、因果応報の関係をつくりなしているわけではなく、そのままバーチャルな空間に留まり続けるものもあると考えたのです。

問題は、この心のバーチャルな世界と物質世界のリニアな世界がどのように繋がりあい、影響を与えあっているのかを見極めることの出来る、新しい科学が必要だと、言っているのです。

それが量子力学によって証明されたのでしょうが、未だ僕らの日常には、いかせていません。

僕の場合、この活動を思想化を極力避けたいのは、量子力学では、どこか一ヶ所に変化が起きると、たちまちにして変化はマトリックス全体に及びます。

マトリックスは不動のままに保つように、全体の変化が調整されているから、ならば微細領域での変化こそが一番大事だと感じたからです。

だから、己を変えて行くしかない。

鎮座して、過去の価値に依存する、手段から離れたのです。

もっと原型の大いなる依存して当たり前な前な価値。

それが、お山が生み出す伏流水だっただけです。

コミューンも祈りもスピリチュアルも社会変革も結果です。

己の一個の細胞を変えること。

容器である自分からは、一時距離をおくこと。

細胞全てが、共鳴する時間を、少しでも多く体感すること

それを己と言う言葉で、自然に動くまで。

雪掻きは、するしかない。

もしも水道が通っていなければ、水を汲みに行くしかない。

それは容器が面倒と思っても、細胞は運動をしようとする。

自分とは、六十兆個の細胞の指揮者。

自分の六十兆個の生き物を指揮できなくて、他者と繋がるなど無理であると。

繋がるとは細部の細胞レベルで起きること。


だから好きなんて言葉では、表現が足りなく疑問符。

容器から細胞を観た言葉でしかない。

細胞の言葉を意思を現実化する道具が自分。


物質世界のバーチャルな《場》と心の世界のバーチャルな《場》は、共に同じ全体性で運動しているが、変化が起こっても不動でなくてはならない。

そうでないと、自殺に向かったり、統合失調になったり、なげやりになったり、引きこもったりしか道がない。

社会に新しいプランをジャンプさせて抽出し、尚且つ破滅に至らないようにするには、ループ交差のキアスムループによる、対称性の原理を己に身に付ける事が、一番重要なのだと。

自分を信じる迷いのない、昨日のサッカーのホンダ選手のようなメンタルの強さは、器からは生まれない。

魂とは、細胞一つ一つの意思の全体に与えられた、命名だと感じている。

器が器を信じても仕方がない。

ミトコンドリア一個に火が灯り、それを急速に全てのミトコンドリアに伝播させ、全体の火になったときに、不安は零になる。

不安とプレッシャーは別である。

不安は、容器の言葉。

ミトコンドリアは強い。

必ず生きようとする。

そしてミトコンドリアに伝わる力は、捻れた物語である。

何かの事件が歴史につくりかえられたり、同じ話が共同体のなかで変形されていったり、違うジャンルのフォークロア同士の相互に展開される変形の関係によって社会が物語の形式を利用して、己で生産していたのです。

まさにそれは、ミトコンドリア同士の法則です。

伏流水の活動における結果をを都市伝説にした。

神話に育てたい。

フォークロア
フォークロア古く伝わる風習・伝承など。またはそれを対象とした学問。(伝承や民俗学を参照。)主にラテンアメリカ諸国にて伝承されている民族音楽、またはそれを基にした大衆音楽における日本での呼称。(フォルクローレを参照。)人づてに語り継がれて形成された都市伝説を指す用語。


七代先に起きるたたりという思考は、日本の奥地勿論この地にも根付いています。

そしてアメリカインデイアンにも。

神話に込められた、三次元の事件の意味。

津波原発、そしてこれから更に起きそうな様々な限界点での予測、この非対称性の修復不可能そうな事件を、いかに捻れ交差のキアスム構造で対称性に戻すかが今問われているのではないでしょうか?

それは細胞の意思の元に生きること。

細胞の意思と出逢うこと。

そして実践すること。

細胞自身のアンテナに従うこと。

それこそが、アナタ自身のシャーマンと出逢うこと。

現実世界を構成し続けている心的な体制と、対称性で動く心的な体制とが、一つに結びあいながらダイナミックに変化していく様子を、僕は描く力を手にしなくてはならないと、叱咤激励しているのです。

神話的な人生の地図を手にすること。


神話が、捻れ交差ループ構造での創り変えの道具として生きていた頃では、もともと教義を持った宗教等は不要でした。

ダイナミックな運動を行う神話的なキアスム変形の活動(昔の祀りなど)そのものが、本物の野生の宗教でした。

神道古神道、以前の宗教。

生活こそが宗教であり祈りであった頃の。

対称性でのバーチャルな空間は、言語に完全に呑み込まれていませんし、視覚化してモノサシをあてることも出来ない原始的な様相をしています。

捻れがあり、交差があり、メビウスの輪があり、それが何層にもなり、それによってはじめてループを創っている。

ですからそれを平面につくりかえて、均質化したり計算したりすることも出来ない造りをしています。

ですから中沢新一さん強調されるように、人間に残された、最後のとまでは言わないものの、数少なくなった野生の領域なのです。

中沢新一曰く《空間を野生化する》。

そこからしか、躍りなど生まれでるはずがない。

土地を不動産とみなしてそれに、値段をつけるという行為そのものが一種の倒錯です。

そこから、地球にイイコイイコという感覚は生まれません。

本当の大地に、自分をたたせていない、カタワなバーチャルは、カタワを創り続けます。

現実世界に顔を出している、土地の表面積を測量して、そこに様々な付加価値を付け加えて貨幣価値に換算するは、あくまでも表面のみの出来事に過ぎません。

土地とは全体性なのです。

その地下や奥には、広大な計量不能なトポスが広がり、そのトポスを利用して脳の内部のバーチャルな領域の活動を投影して記憶を蓄える場所としてきました。

そうやって人は、土地と結び付いてきたのです。

しかしグローバル資本主義は、そのような土地と人の繋がりを奪い、人間を根無しにし、表面のみの仮面につくりかえて、お金に変えないと生活できなくなったのです。

だから、コミューンを創るという志があっても、この部分の流動資金があれば、後は手作りで捨ててあるもので出来るという、強さから生まれる楽しみを生む経験を持っていないと、悲惨ないなか暮らししか想像が追い付かなく、ヤッパリ大きな資金に固執します。

僕らが野生の思考を手にすることが、全ての始まりです。
















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