新しき蝦夷 銀河縄文原人が創る 宇宙国建国までの舞
今回のツアーは、本当に色々な事が、見えました。
ワンネスになりうるモノは、カリスマを持つ商品は、機関車でなくてはならないとハッキリと自分が作り出した商品に、自信を持てたことです。
《野生化された心体を手にするワーク》はそれ自体がカリスマなんです。
僕などただの伝導者であって、もう人間の特定のカリスマは、不要なのです。
何故なら《野生化された心体を手にするワーク》は、全員中に眠っているからです。
それを下手に今の僕らが手を出すと、天才か壊れるかです。
昔は壊れても、そこにも意味を見いだせる、システムが存在していました。
よい悪いは別に、勝者としての死と申しますか、あの世から応援すると言いますか、託すと言いますか、吉田松陰さんや三島由紀夫さんもそうでしょう。
自分には、仮面しかないと気づいた三島由紀夫は、まだギリギリ後継者に、肚の顔と僕ら自身がもつシャーマンの顔を融合させて、三次元に抽出させて生きてくれと、志を託せた。
志を託す勝利の敗北とでも言いましょうか。
けれどもいまは、そのようなカリスマでは、事が動かないとわかってしまった。
岡本太郎さんほどの環境で、鍛えられた強さを有するように、自らを落とし込む時間もない。
それが武術や宗教からの離脱になっていく。
だから、伝導者は必要ですが、師範として君臨するモノは、必要ない時代なのだと思うのです。
では、一番の伝導者は、誰か。
生活の側に本気でデーンとあると感じる、自然なのだと感じるのです。
そうなると、僕などはシェルパーです。
とりあえず、一緒に重たい荷物を背負って、身近なのに大いなる自然に出逢うためツアーの赤帽さん、荷物持ちです。
例えばこの回覧板。
東京から仙台、そしてケイトラに乗り換えて、後家まで三分に野生がある。
あえて大きな山に登山するのとは、全く違う日常のアウトドアー化。
はみ出して丸したところが、クラブハウス予定地。そこから三分更に奥に、家とボトリング基地があります。
野生のニュースが己のシャーマンが、生活の場に現れる肚の自分に、いつもなにかを語りかけるこの環境が自分を一番早く育ててくれました。
一致させるしかない。
冬の東京の出張中に、雪が積もりすぎて、このボロ屋が押しつぶれないかと言う時に、シャーマンの自分と肚の自分と三次元の自分がコントンとはしているけれども、それこそが今であり、自分だと言う和多志に出逢える。
これは、都会では無理です。
それにスピリチュアル覚醒ビジネスが、大きな偽の口をあけて待っている。
それよりはましですが、整体もどうしても一時しのぎ。
それは、グローバル資本主義に染まってしまった、人間には無理だと思うのです。
タイの古式を地元の人にやっていただくと、結構、魂とシャーマンと偽の顔を把握できるのは、施術側が、心にいつもタイの元風景が、今だ脈々といつもあるからこそなのだと思うのです。
テクニック(三次元)を支えるシャーマンと魂がいつも大きく転換されながら腹と背の真ん中の《肚》で捻れ、メビウスの輪で三次元に帰っていく。
自分の方向性は、己の外にあります。
それも三次元ではない外に。
ですから、肚に出逢っているようで、腹なので三位一体にならず、シャーマンが抜け落ちる。
だからそれを埋めに外付けスピリチュアルに通う。
依存を創る。
山岡撤収ぐらいな人なら、借金までしてコジキに飯食わせ、結局借金も返さない。
それならお金の動きを止めている側にも、コジキ側にも、成り立つトリックスター。
けれども、スピリチュアルと言いながら、結局は商売だから(決して長谷川会長のような商人ではない)有るところで逃げる。
己のシャーマンは、里山でしか出逢えない。
そこに生活臭と野生臭とクールな知的な行為が乱れてこそ。
新里山時代。
都市ではクールな知的な自分と、生活臭の間しか存在しない。
今のところ。
だからこそ、都市に野生臭を取り戻せたときに、精神病もなくなり、弱者と勝者の格差も消えて、本当のキアスムビジネスが生まれでる。
崩壊寸前の、グローバル資本主義の都市の内部からでは、まず三位一体は出ないでしょう。
だから、シャーマンだけの人物も出る。
そして人々は、面倒くさい存在として、毛嫌いに行く。
けれども何故シャーマンがウロウロするか、シャーマンと自慢する人がいるか、あなた自信が、己のシャーマンと出逢っていないから。
それを見事に表したのが、Y字なのです。
現実は本当は立体です。
1の無意識から2にと言う面に現すと天才。
3から4へ行ってしまうと狂気。
それを平面化すると
Y字になるのです。
中沢新一さん曰く、平面に壁を創り出すような折り曲げ構造の脳がある。
壁に折り曲げられた部分を、平面に射影すると、そこにY字が生まれでる。
これが芸術的な創造のプロセスをモデル化して示している。
カタストロフィー数学者は考えた。
「カタストロフィー、カタストロフ(catastrophe)フランスの数学者ルネ・トムが創作した数学の専門用語で1972年にカタストロフィー理論として発表されて以来、様々な科学分野で議論され一般的に知られるようになった。英語に近い読み方ではカタストロフィーとなり、フランス語読みに近いとカタストロフと表記されることが多い。 一般的には破滅や破局と言った意味に捉えられることが多いが、学術的な意味とは異なる。環境に多大な変化が訪れること。変化に追従できないものは絶滅への道をたどる。フィクションなどにおける悲劇的な結末のこと。上記と合わせ、きわめて破滅的なニュアンスを持つことが多い。カタストロフィー理論の略。」
(このアート思考が、僕らの様々な問題を解決すると僕は思うのです。アートテン農法は、僕のワークと全く同じでした。畑の四隅に四角を意識させ、天には丸を、それを下ろすと奇跡が生まれ、収穫が三倍。その結果日陰でも作物がなる。白菜六十キロ。アラスカの表土での農作物ににていた。)
壁に折り曲げられた平面の、壁を含んでいない部分を辿ると、平凡な人生を送ることが出来る。
一つの地点から別の地点へと、その人はなだらかに続いていく道を歩いて行くことが出来るからだ。
ところが、壁を含む部分をたどり始めた人は、創造的な人生か、破滅的な人生か、どちらかの可能性にさらされていくことになる。
壁の折り曲げの湾曲部にさしかかって、そこで突然に、別の平面へのジャンプを体験する。
その人の人生は、カタストロフィーにさらされる。
うまく社会的な平面に着地できて、芸術や科学的な創造という形を通して、意味の世界に何かの富を増やすことができ、天才と呼ばれる。
しかしジャンプに失敗すると破滅を体験する。
(僕もミニの破壊は多く体験した。今破滅をしないためにはY字の真ん中の点線を通過できなくてはならない。この点線を《カスブ》とよんでいる。)
この様子を平面でみると、3から4に落ちて破滅をしないためには、カスブの線上で飛躍が行われているのがわかる。
つまりカスブは、存在世界に飛躍やカタストロフィーをもたらす特異点の集合である。
これを更に現実の世界に投影してみると、Y字をした図形の上で起こっている、存在の次元を飛び越えている、飛躍現象をみることになる。
(まさにサーフィンはそれである。大波のチューブを抜けるのは、カスブのラインだ。サッカーも同じだ。)
Y字こそ、芸術と科学における創造の意味を現す、決定的なトポロジーだ。
(冒険家もガロアという数学者もこれに繰り返しはまり、ガロアのように、最後は破滅を迎えるパターンが多い。新しい三次元でのんびりしたい、僕は、人生一度の大きなジャンプが可能でよい。さてうまく行くか、破滅を迎えるか、どちらにしても、二つにひとつ。)
ガロアはフランスの革命期を生きたから、人生そのものが、分岐点の連続である。
アートは、Y字に究極する。
流行にも美術史にもかかわりなく、これは、ホモサピエンス的普遍の響きを湛えている。
これが横尾忠則画伯のY字シリーズに描かれた、左側4地点に落ちて破滅したガロアの肖像画が描かれた作品です。
そして点線にこそ、唯一創造の建物がたつと三次元での無意識化の抽出を示しているのです。
それがこの何日かY字にこだわって来たのは、僕の思考を整理して鍛えたかったからです。
今同じ部分を目指している方々に、多くの破滅の道に入り始めた方が出始めた。
だから、アート的な、誰もが理解し実践できる、処方せんを試して、証明したい。
勿論愛する景子と子供とここまで合流してきた仲間の為にも。
そして横尾忠則画伯は破滅をしていない、兄貴分の三島由紀夫が破滅したことが、彼の守護霊になっているのだろうか。僕はそこをいきたい。家族の為にも、仲間の為にも。
この活動を失敗することは、もう僕には許されないのだ。
それを使命だと感じる。
作品は出揃った。
後は点線を踏み外さずに、駆け抜けるだけ。
だから、もう法人や団体に繋がらずに、ぶれずにワンネスという点線を一気に駆け抜ける。
この六月に。
今生き甲斐を見いだせない一方で、飛躍出来ずに、破滅を迎える人も多い。
僕は、それを証明したい。
死なない程度の飛躍は、人類には可能だと示したい。
Android携帯からの投稿