あらえびすブログ

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新しき蝦夷 銀河縄文原人が創る 皇の時代の宇宙国建国までの舞

今日は、水道橋のカツキチのお店の事ですが、その前にキアムス構造の体と言葉が、一昨日のキス事件で、ハッキリと気づけたので、先ずはそれをのせます。

まだ夏までは、東京での仕事が片付かなく、此方にいつもいれなく、メールでお互いを語り合っていますので、景子へのメールをそのまま載せてみます。



おはよう???

ヤッパリ相当神経がすり減っているのですね。

ベッドでは、何故か寝たくなく、地面に近く寝たくて、食堂で寝袋ひいて横になっていたら、朝まで直通でした。

景子に嫌な想いをさせたのも、景子に言われても耳に届かなかったのも、お酒のせいもあるけれども、僕の無意識を僕が見続けるに疲れて、一度無意識に繋がる穴をふさぎ遮断したく、穴をクローズさせて、表面にそのまま抽出された魔が、そのまま捻らず出てしまい、あのような行動をしたのだと思います。

それは、弱さですね。

去年までの失敗の癖が、まだまだあるのですね。

けれども、きっとそれぐらい、いよいよ後一歩で、たどり着く、本格的なスタート地点が、近いけれども、近づくほどより高く感じる壁を前にしての、心の深い所にある、弱さが露出したのでしょう。

平常心なら、多分僕のなかでは、あり得ない行動だからです。

昨日の睡眠は、より僕の無意識からの表現に捻りが足りないよという、変革の必要性を感じる絶好の機会でした。

まだまだ気が抜けないのに、一寸すきをつくった。

それが相手にも伝わってしまったのでしょうね。

景子にしたら、本当にがっかりする行為だったでしょう。

謝っても謝りきれませんね。

如何に他者にまだ、気遣いが足りないかですね。

気遣いには、終わりはなく、すきをつくってはいけない。


早くスタートして、無意識と平面に繋がりがたちきれない仕事で、君との未来型の本格的な暮らしをスタートさせたいという焦りが、いつも背中に乗っかっています。

焦らないで、けれどもスピードが実際には求めらてきています。

もう寄り道による、失敗は許されない。

それぐらい、自然界もギリギリ。

そして、東京では、ドンドン急速に繋がりが多少でも外に拡大しはいる。

けれども、このキアムス事業は、竜巻のように、外への拡大でしか、前に進めない。

それが気付くと、ツイツイ直線で前に行こうとしたりしやすい。

今回も一回伏流水のことは、道場でお知らせできなくても良いよねと引っ込めれたら、向こう側から察して頂いて、あのようになった。

これこそが、気遣いだよね。

だから、ブチュとこられたときに、パット瞬時にカワセル、捻り思考の早さが、次の出張での三十日長谷川のお仏壇の会長との出逢い、三十一日千葉での障害者農業事業の樋口さんとの出逢い、そして一日菅家先生の美し国の六月のツキナミサイ、そして同じく一日の名古屋での武術ワークからは、身に付けて東京へ来いと言う、自分の懐の深きに住む僕のガイドが教えてくれた。

結局、気遣いって、魂って、他者への気遣いだよね。

そこに関わるすべての人が、腑に落ちる結果を生み出す。

武術と一緒で、徐々にスピードの中で、直線が起きないように、訓練するしかない。

それを出来るのが、愛。

それが、魂が剥き出しだって言う事何だよね。

そうしたら、自分の奥底では、他者への思いやりのみになり、無私になる。

それが結果、自分の先にある、現実に抽出される。

だから、外の世界は、魂の他者への思いやりが、現実結果を創る。

それが保江先生がおっしゃられる、《なりきる》なんだよね。

そうなると、自分が自らを分けなくなる。

結果、穴はいつも開いたままになる。

和多志は、メビウスの輪の交差にいることになるから、結果己が、キアムス構造の中心にいつづけれる。

だからキアムス構造の事業をなし得るのではなく、自分がキアムス構造を持っていれれば、結果がそうなると言う事。

それが、植芝盛平先生の仰有る、我そく宇宙の中心になるんだ。

いつもこうやって、メールしたり、blog書いたりして整理されていく。

今回の全部の出来事をひっくるめて、次の為に捻ることが出来たよ。

今回も、だんだん整理されてきた。

景子又々、気づくきっかけを有り難う???。

捻りこそが愛。

そして、その空洞を持つ球体が、タンデン。

そのしたにある魂に、さっと情報を落として(しっかりと先の先で素早く相手の心を受け止めて)魂で気遣い(肚を練るがこれだね)、タンデンの穴に向かって捻り交差という動きで、抽出する。

それが創るのが、気遣いの愛で、外に繋げる唯一の奇跡を生むのですね。

本当に有り難う。

愛して?????います。

行ってらっしゃい。



この状況で、このように気付かせて頂いたことは、本当に有りがたい事であります。

昨日はやっと雪がなくなって、上の水源地と獅子神様にも御挨拶できました。

さて水道橋のカツキチ。

二〇年ぶりで訪れました、菩提樹というお店もカツキチも健在で、東京と渋谷にも店舗が増えて、味もそのままでした。

内装が古いものが沢山あって、あくまでも演出だと思いきや、そこには経営者の先祖で煙草で財をなした、同じ家に正妻と二十人の愛人、そして子供が五十三人もいた方の集められたものが飾ってあったのでした。

岡本太郎の一家以上に、複雑な人間模様のオウチであられたのだと、勝手に感じておりますが、まあすごい方でした。

以下ウイキペデイアから。
知れば知るほど興味がつきない人物です。
さぞかし周りは大変だったでしょう。
前々時代の成功者でしょうが、何かを両面学べそうな人物です。


岩谷松平

岩谷 松平(いわや まつへい 1850年6月[1] - 1920年3月10日)は薩摩国鹿児島県)出身の実業家、政治家。岩谷商会会長。別名、岩谷天狗。

目次

[非表示] 1 経歴2 親族と子孫3 岩谷と広告4 脚注5 参考文献6 外部リンク

経歴 [編集]

薩摩国薩摩郡隈之城郷東手村の向田町(現在の薩摩川内市)にて、郷士・岩谷卯之助の二男として生まれる。1858年に母と死別。1863年に父をも失ったため、酒造業を営む本家・岩谷松兵衛の養子となる。1877年8月、東京銀座に薩摩物産販売店"薩摩屋"を開き、成功を収める。このころ、自邸内に20数人の愛人を囲い、男女21人の子を儲けて話題となった。1880年5月に煙草販売業「天狗屋」を開業した。日清戦争の際には軍に煙草を納入し、これは後の『恩賜のたばこ』のもととなった。煙草産業の大立者となり、東洋煙草大王の異名を取る。店頭に「勿驚税金たつた百萬円」、「慈善職工五萬人」と大きく書くなどして、自分の事業が国益に貢献しており、「国益の親玉」であるとアピールした。煙草産業以外にも、共同運輸会社、帝国工業会社、大日本海産会社、ラムネ会社、東京食用鳥獣会社、東京取引所銀行などの創立に関与。1901年の長者番付では、服部時計店(現、セイコー)創業者の服部金太郎と共に最上位となった。1901年5月から1903年6月まで東京市会議員を務める。1903年3月、第8回衆議院議員総選挙に東京府東京市区から出馬し、新代議士として最高点で当選。しかし1904年3月、専売法制定によって営業権を政府に奪われて、1905年11月に廃業。その後は不遇となり、写真の入った位牌を販売するなどしていたものの、脳卒中のために半身不随となって晩年を過ごした。1万3000坪の自邸にて、脳溢血で没。東京都渋谷区猿楽町の旧居跡には、岩谷天狗山という地名が残っている。

親族と子孫 [編集]

正妻と愛人たちに生ませた子供の総数は53人にのぼり、そのうち次男の岩谷二郎はベルギー大使となった。二郎の息子岩谷満は探偵小説専門出版社岩谷書店の創業者で、探偵小説誌『宝石』を創刊した。同じく、松平の孫の岩谷広子は声楽家。このほか、長男松蔵の娘森赫子は女優となった。紀田順一郎『私の神保町』(晶文社、2004年)によると映画監督山本嘉次郎も松平の孫とのことだが詳細は不明である。 なお、安部譲二の母方の祖母は松平の親族にあたる。[2]

岩谷と広告 [編集]

岩谷は派手な広告で事業をアピールした。岩谷はシンボルマークとして丸に十[3]、イメージキャラクターとして天狗を用いた。またシンボルカラーとして赤を採用し、赤づくめの衣装を着て、赤い馬車に乗って街中を練り歩き、人々に声をかけた。岩谷は自邸も赤で統一しており、妻の葬儀の際には赤い棺を用いたという。商売敵であった村井商会の村井吉兵衛も大規模な広告で対抗し、白いのぼりを揚げた楽隊に商品のテーマソングを演奏させて行進した。両社の広告合戦はエスカレートし、時には騒動をもたらすこともあった。また、赤い馬車に乗った岩谷に声をかけられた一人が、電通創始者の光永星郎であった。光永はこのことがきっかけで広告に関心を持つようになったという。

脚注 [編集]

^ 参考文献『日本近現代人物履歴事典』75頁では、嘉永2年2月2日(1849年2月24日)。


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