あらえびすブログ

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新しき蝦夷 銀河縄文原人が創る 皇時代の宇宙国建国までの舞

昨日の三島でのワーク、一昨日の埼玉でのワークで、参加者から今回の内容は凄いですと言って頂けました。

僕の教えが凄いのではなく、螺旋構造で動く、螺旋構造で思考するとは、勿論幾何学に通じるのですが、ツイツイ幾何学だと認識したときに、視覚によっての螺旋のみによる、ループを意識してしまい、結果それは、リニア型の直線思考で考えた螺旋という形に、鎮座してしまうと言うことなのです。

それは、ナットの雌ねじと、二本のボルトで僕自身が気付けたように、タンデンを球体というモノで視覚的に思い浮かべてしまう事で代表されるように、所詮平面世界で観た球体で終わってしまっていたということです。

此れに気付いた自分自身が驚いての、ワーク内容だったので、きっとそのお伝えしたかった内容は、参加者の方々に、見事に直接腑に落とせる内容だったのです。

ある方は、御病気に、ある方は仕事の発想の行き詰まりに、ある方は行っている専門分野の仕事や趣味や道のために、お受けいただいているのですが、それがどの方の無意識の土俵にもピッタと馴染んで浸透したのは、太陽が昇る瞬間の感動と同じように、下半身から情報が自分の器であるナットと中にねじれ構造で入り込み、ネジの受けてと射しての隙間に捻れ交差の合体が生まれたからなのです。


僕らの今までの思考が、ネイテイブインデイアンや、縄文人と比べて、如何に貧弱になっているかという現れでした。

例えばSEXでとらえると、岬が二ヶ所海に突き出る場所に、サキという名をつけて、その間には、水が無限に涌き出る水源地があり、そこに十二面観音を配置して、その入り口に当たる場初に鳥居を設置して、鳥居から湧き水が涌き出る場所の間の山の麓に、お墓を創ったのです。

此れは間違いなくそこに捻り転換で、死から生を生み出す零ポイントとしての、女性性に対する日々の性生活と、大自然を同じものとして、捉えていたということです。

逆も真なりで、当時の男性は、夕陽が沈むような感動をSEXで味わっていたとしか、思えない痕跡です。

そこに例えば射精をして、小さな死を体験して、女性の性器奥に自分の命の分身を捧げる。

するとそこから、捻れ交差構造で、命が生まれでるという、自然讃歌を感じるところに、喜びと快感を感じていたのではないだろうかという、全く今とは違う性願望なのです。

SEXはもっともっと自然界と一致した行為として、神々的な営みであった可能性があるのです。

先住民の祭りで、そのときだけお堂のような神聖な空間で、男性神官と女性の巫女が、五穀豊穣を願い、神にSEXを捧げ、神と言う自然界の仕組みと一体になっていたのです。

今の僕らで言えば、夕陽を見て勃起し、男性が持つ種を受けとるために無限のように、女性性器から、潤滑水が溢れだし、朝日を見て射精をするときに、今度は女性のなかで種と水分が混じり愛、そして萌芽するときに「イク イク」と感じると言うような凄い思考の元で、女性と男性がマグワッテいたと言うことです。

それだもの、今の現代人のように、SEXをして、逆にシラケ寂しさを感じると言う事とは無縁だった可能性が高いと感じるのです。

ですから直接の平面思考での性器等で、興奮していたのではないと言う事。

田植えにも農作業全般にも、山菜取りにも、百姓大工作業にも、狩猟にも、潮干狩りにも、潮の満ち引きにも、同じ仕組みのエロスの感動が満ち溢れ、今こそ地球や宇宙と共にあるとした行為として、感動と快感と喜びと満たされ感と包まれ感のなかで、働いていたと思えるのです。

全ての作業がエロスの行為として、一致していた。

今の低俗なアダルトビデオや商品化されたSEXに興奮しているのとは、全く違ったのです。



全く違いますが、「地にしかっり足をつけて」この言葉を言われたときに、しっかりと上から食い込む自分を創造すると、逆に固めてしまいます。

五メートルほどの広葉樹(広葉樹なので螺旋運動なので、真っ直ぐな柱ではない)で柱を立てようと穴を掘って、バランスを取りながら穴に土を入れて固めていくときに、しっかりと立っているかどうかは、下から上をあおいでいるはずです。

田植えの上手な人も、感覚で泥から垂直に立ち上がるサキを見ています。

苗を横から感じて田植えしている人は、必ず蛇行します。

一昨日のblogの暴走族や、直線で踊らされる祭りの躍りや、学生運動にみられる蛇行は、横から社会を見ていた証拠です。

即ち平面でのみ生きていたから、感じることなどしていないのです。

殆どの方は背骨を意識してと言われ、出てくるのは横の意識です。

これが下からにならないとならない。

瞑想して内観してと言われて、ほとんどが上目線で自分を探ります。

この方は田植えでは上から稲を見ているので、根が上手く泥に差し込まれない。

泥に差し込むのですから、力入れれば入れるほどに、上手くいかない。

そのような、巨根自慢の男性の、暴力的なSEXも巷では多いのでしょう。


田植えにしても性生活にしても、僕らが如何に、喜びを無限に贈与してくれ、とめどもなく湧き出す、自然界の仕組みを自分の生活と解離してしまったかがわかるのです。


螺旋での入力は、下半身の下から生じて、外から《鼻、皮膚、口、耳、目》の順番で中心にたどり着きます。

出力は、カタツムリの殻の中心から、今度は逆に《目、耳、口、皮膚、鼻》の順番で外の世界である、リニアな平面の三次元世界に抽出されます。

この構造は見事に茶道の、お茶碗の回転に現れているのです。

お茶碗を上から見て回転するときに、下半身からの入力は逆に回転をして、捻れ交差で下半身から入り込んだ自然界のエネルギーと、客人である自分を、おもてなしてくれた主人の心が、自分と言う器のナットで出逢うという、なんともエロチックな行為なのです。

相撲の品格と言われる解るようでわからない感覚も、この事だと感じます。

ですから男女の愛の交換であるSEXは、相手を越えた、アラヤシキとの出逢いであり、お互いのバッグボーンにある自然界が、今の三次元の体を媒体にして、大いなる自然界と繋がる行為として、行われていた可能性が、相当に高いと思われます。

此れは景子と抱き逢う旅に、未知の自然界との遭遇を試みているのですが、だいぶ身に付いてきました。

今のSEXは、慰め逢うような、オナニー的な行為から脱却できていなく、慰める行為を逆手に思考が取り上げると、暴力的な行為やスポーツ化(ここで言うスポーツとは、深沢七郎さんが仰るようなスポーツの捉え方ではなく、分類が大好きな平面リニア思考でのスポーツです)された乱交パーテイーのようなものになってしまっています。

もしも自然界との繋がりを、相手の体を媒体としてなしえる行為ならば、当然そこには神が現れます。

乱交パーテイー等は、日の出と共に五十もの太陽が生まれでて来るようなもの。

僕らは集中力が欠落して、ただの肉が合体して射精してハレンチな行為での、浅い興奮で終わる行為になっていくでしょう。

覚めるのも早い。

思い返すとイデオロギー思考が作り出す、何かへの反発行動でしかない、それもそこには直接に怒りを感じる本当の相手は不在で、目の前のお互いの肉を媒体にしている、学生運動の行為と同じものになり、振り替えると結果は何も身をつけない、シラケるになるのでしょうか。

今のスピリチュアルブームも同じシラケを僕は感じます。

カルマが解消したと言われて、何か身がなった自分や他者に出会ったことはないのです。

GDPと同じではないでしょうか。

そこには、神の自然界の増殖、ギフトは生まれません。



違う層を繋ぐのは、違う感覚器官です。

例えば楽しみにしていた、彼女とのピクニック。

さていよいよお弁当を開くとき、必ず開ける前から《五感による、ループ運動》が起きています。

差し出す彼女の方は、それとは逆の内から外へのループが起き、その一致で捻れ交差で感覚が手を結び、幸せを感じているのです。

その特は何気ないタコにアレンジされた魚肉ウインナーさえも、幸せを生み出す味に感じれます。

その魚肉ウインナーの味と青空と、雲と、木々と風と自分達がひとつになっている。

これこそがGDH,国民総幸福生産数量です。

実はブータンの国王がGDPに見かねて打ち出した言葉。

そしてここからじつは、TPHが生まれでた。

しかしそれを平面に利用しやすく、TPPにされたのです。

TPHで捻れ交差からうまれた幸せ指数が、TPPという貨幣経済での数値に平面化されたことが、一番怖いことなです。

それには、本来五感の移動が創る、螺旋思考をもう一度手にすることが大切です。

アイヌの刺繍は、もろにその思考行為のスポーツ化としての現れでもありました。

糸を指して見えない下で交差させ、表面に模様を現実化させていく。

羊毛をよる行為も同じです。

きっと腹筋が割れる思考が、股関節柔軟にし続ける思考が存在すると僕には思えてなりません。

思考で筋肉を磨く時がきっと来はじめると、僕には想えるのです。






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