あらえびすブログ

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新しき蝦夷 銀河縄文原人が創る 皇の時代の宇宙国建国までの舞

三次元の現在の経済や生活から逃げないで、三次元の価値にも留まらないで、本物の銀河縄文原人に近づく事は、なんて大変な事でしょうか。

禊に禊て、祓いに祓いてジワジワと近づいていくしかありません。

自分が自分を正当化しようとしたときに、既にそこには平面思考の限界鎮座してしまうからです。

言葉で出来た、今の三次元社会は平面です。

三次元から逃げないで新しいキアスムビジネスを、この平面に生み出すには、建築に例えると平面の上に単純な平面を生み出すビルの構造では、無理が生じます。

まだピラミッドのような、垂直ではない平面には可能性がありますが、御所山の黒伏山のような、逆反りにはもっと大きな可能性を感じてしまいます。

いつもいつも気になり見てしまう。

逆に天界に危ういほどのカーブで反っているお山の内部の力に惹かれるのです。

祖の縄文原人は、縄文土器にこれを宿らせて見て触れて聞いていたのでしょうか。

僕はどうしても、右脳が言葉の前に生み出している思考が創る、幾何学立体模様にその糸口を見つけ出そうと、躍りをやり身体の使い方を追求してきたので、そこからの紐解きにとても興味があります。

ですから、骨の形であったり内臓の形や触感であったり、それこそがその人を紐解く一番の情報に感じてしまうのです。

筋肉は、固める事はいとも簡単にしてしまいますが、完全脱力ほど難しい事はない。

内臓の触感が己の体全てに意識移動できたときに、筋肉は完全脱力します。

生まれたての赤子に触れるときに、筋肉を硬直させる手を有する人はまずいないでしょう。

野生の動物は、この状態で喧嘩したりしますから、必要以上に暴力を進めることはしません。

野生では、ありませんが、うちに残った雨と雪もこんなに大きくなりました。

雪です。
雨です。

昨日のアメリカでの竜巻。

そしてここに同居する山ちゃんが見ていなかったので、ビデオでもう一度観た《つなぐ》。

そして中沢新一さんの《野生の科学》での重要なテーマである、キアスムビジネスを生み出せる《対象性思考》は、大きく層の違いをループで繋ぐと、まるで縄文土器のような微妙なデイテイールを絶妙なバランスで繋いだ全体が現れます。

まさに昨日の木は、広葉樹は見事にそれを示した形です。

先週の土曜日の越谷での、歌姫の三時間個人レッスン七回コースの一回目はまさにこれを体感する入り口のワークでした。

動きに精霊の力を宿らせたい。

僕で言えば、今の目指しているキアスムビジネスには、精霊の力がなくては形状を三次元空間に生み出せないのです。

精霊とは、入力出力が一体となったクラインの壺を持つトーラスです。

即ちキアスム(捻れ交差)構造を有する、トーラスです。

赤ちゃんが膣を捻れ交差運動で出てくるのは、そもそも精子が持つ運動形式を見事に引き継いだ
キアスム構造の運動だからです。

竜巻も、水が穴に吸い込まれるのも、全て捻れ交差運動を使っています。

ここで重要なのが、《穴》に対する僕らの思考が持っている本当の魔力です。

きっと男性が女性性器に心の奥底で引かれているのは、この穴の先にキアスム構造の捻れ運動の装置としての子宮が存在するからだと、僕は自分の景子に対する性願望を通して感じています。

単純に性の欲望を捉えると、リニア(直接)思考に陥ります。

針の穴に糸を通すときも、糸を舐めて滑りをよくして、捻りいれます。

ボルトとナットも。

だから雄ネジ雌ネジと言います。

では、僕らは何かをなし得るときに、ループ捻れ交差する肚の形状を創造しているのかというと創造していないのではなかったのか。

コーヒーをいれるときも、真ん中に穴を少しあけて、螺旋でお湯を入れる。

先住民は家の屋根の上にも、このねじれ構造の入り口を持っていた。


僕が言いたいのは、風神である竜巻や龍神である、河の氾濫や津波がもっと大きな僕らが忘れてしまいすぎた、形状の大切さを物語っているのではないかと言うことです。

僕の頭が変なのかは、自分でもわかりませんが、大好きでこの人なら生涯愛し抜けると確信している景子とSEXをするときに、エロではなく、エロスという生命という精霊と出逢っていると感じるのです。

女性のキアスム構造奥で、男性のカタワなトーラスが、見事に出逢い捻れ交差運動を無意識にしてしまうときに、そこから多くの精霊を生み出していると感じるのです。

僕はこのときほど、SEXの素晴らしさに出逢うのです。

何時間でも平気で合体していられる。

これは、左脳の精力絶倫とはわけが違う。

もっと右脳が宇宙の仕組みと合体するような、エロスとの宇宙の精霊との出逢いなのです。

ですから、精霊力絶倫と言う言葉ならばどうにか納得できるのです。



ワザワザ自分達の性の話題も借りて、僕が見極めたいのは、野生とは捻れ交差構造が生み出すスポーツであり、そこには精霊が住んでいて、そこからしか皇の時代の安定期に迎える移項期を生き抜く、ヒントがないと確信しているからです。

雄ネジだけでは、事はおきない。

今までは雄ネジのみのビジネス構造でした。

男性の巨根自慢、筋肉自慢に代表されるような、ビジネス構造です。

雌ねじという《穴構造》をどうやって三次元の平面に設置するかという、実は男性の中の女性性の解放なのです。

勿論フェミニスト運動でもなく、全ての生命に宿る女性性の構築なのです。

きっと野生の雄には、女性性が既に有されている。

この女性性を概念や言葉でなく、色や形式に置き換えて、それを四角の言葉のステージを遥かに越える円のステージで捉え直し、それを四角の概念の地におろして、地下に埋め込むという、《左脳では理解しがたい何か》を三次元ビジネス土俵にあげれなくては、アラエビスが本当に地上に芽を出すことはないのだと感じているのです。

又そういう意味で言うなら、如何に僕自身がこの試される短期間で、自分の中にパートナーの景子さえもが驚くような、女性性と出逢え表現されるかが問われてきているのです。

僕が雌ねじを持つ人格として、《場》にその瞬間瞬間存在しているかこれをいつもいつも己に解いていなくてはならないのでしょう。

なぜなら、場は約一年、ループが一周して観えてきたことは、以前微かに出逢った方が実は今側で急速に深い繋がりを持った人の中のよい友達であったりと、確実に一周しながら層の違う箇所に降りてきたなという感覚があるからです。

降りるほどにループの環は小さくなる。

時間が早まると言うこと。


中沢新一さんのお言葉をかりると、
英雄の心は、どこまでも拡大していく螺旋の構造を備えている。
そうでなければ、ちっぽけな功利的な野心だけの惨めな交換者で終わってしまう。
魔術の呪文は、英雄の心を更に開き拡大していく螺旋の力に満ちている。
人間的な外部からの力が出入りできる《穴》ないし特異点の存在を前提にする、思考にもとづいている。
その力は、人間の能力ではコントロール出来ない不確かさや強力さを備えているために、人間にとっては、良いことも悪いこともあると言うような、両義的な力を発揮する。
魔術思考は、この《穴》から、そのような両義的な力の出入りを組み込んだ一つの論理体型を築いてきた。
だから矛盾をはらんだ論理とならざるおえない。
一方今までの科学は、両義的な力を容認しない思考を発達して、僕らに旧科学的な植え付けてきた。
穴のない平面上では、いっさいの出来事は出来るだけ矛盾を排除した、内省的な原理に従って進行していくように求められ、論理的な混乱がおきないように初めから仕組まれれている。
それが結果リニア思考をのみ発達させて、螺旋思考を避けてきた。
そして科学に限界が出始めた。


これが竜巻にも、津波にも、原発にも現れている。
竜巻も津波ももとから合った。
変わったのは僕らの捉え方の方であろう。

それが美し国の理念、
日本の蘇り、社会の蘇り、家庭の蘇りに繋がる。
《つなぐ》は、霊的な見えない存在との共存をテーマにあげていた。
そしてそこに自然界の脅威をも含む共存を、今僕らは生き始めないと、先に進めない状況になっている。
その先とは、リニアの先ではない。
螺旋による先である。


だからこそ今科学と芸術の統合を僕らの内部が強く求めてきた。
なぜなら芸術は螺旋の思考だからだ。
その為には、言語の文法構造に《穴》を設置出来なくてはならない。
ぼくは、今日も芸術生活者としての冒険をひたすら生きることで、キアスムビジネスの穴を創作出来る人格を磨きたいと感じている。
キアスムビジネスをこの世に生み出すことは、間違いなく、交易であり、魔術であり、芸術であり、贈与であり、人生の冒険であるはずだ。
《鼻、皮膚、口、耳、目》のループが作り出す《グム》という中心の周囲は、同じ構造を持った表現や実践の形態を呼び寄せ、一つに組あわさって、交易の複合体を作り上げてきた。
今直接関わって来はじめていただいた法人は、皆ネットワークビジネスから、ネットワーク事業への方向転換うをはかり始めたか、始めからネットワーク事業での立ち上げをされたところばかりというのが、とっても興味深い。
しかし等価交換はリニア思考原理の平面のみの展開しかうまず、今の社会の経済の行き詰まりの根元である。
等価交換からは、商品が生まれ、貨幣が生まれ市場がトーラスのみで組織される。
このように二種の構造を経済は持っている。
そしてそれぞれが違った世界観や人間関係を生み出してきた。
《グム》は自然の中にも、人間の心の中にも見いだす特異点の《穴》で、純粋贈与が生まれる唯一のエロスである。
そこには所有という概念が一切生み出されない構造を持っている。
なぜなら、《グム》の存在がその参加者には、感じ取れるからである。
だからあえて見返りを判断する左脳の思考は、ストップするのではないだろうか。
しかし商品は、この《グム》の穴を閉じたことで存在出来る。
だから向かい合った商品に、共通の価値尺度が設定され値段がつけられる。
よって数値での表現が可能になる。
リニア思考なので、足したり引いたり掛け合わせたりのリニア演算が簡単に出来る。
結果贈与は、等価交換に変化し、経済の世界に螺旋の生命原理が見えなくなった。ループから、リニアへの変更は比較的スムーズに行われるがリニアをループに変形することは、困難きわまりない。
これが今の僕のミッションでもある。
又、これがお金を否定しての《グムを持つ経済》だけでは、クラインの壺のみで祖の時代の縄文に帰るだけでよい。
ですから、如何に《穴を持つループ経済》と《リニア経済》を如何に繋ぐ捻れ交差の明日にかける橋を渡せるかということなのでしょう。


その為に個人的な性的な事、様々な個人的な失態と、経済や社会をも繋げてみようと、試みているのです。
とっても恥ずかしいのですが、試みてみる必要が僕には重要なので。
公的な電波も使ってない、公開日記ですから、お許し願いたい。

惑星的に大きくなってしまったリニア思考経済に、どのようにループ思考経済の智恵を生かすことが出来るのか、それは里山の芸術生活者庶民体感にこそ紐解くヒントがあったのです。

そして暮らして三年それは、間違いではなかったと強く確信に代わり始めています。

二宮金次郎との出逢いから、勇気をもって伊豆の僕にとっては高級な自然素材のみの家を手放して、この里山の築百年の廃屋に暮らす僕に、中沢新一さんのこの言葉が背中を押します。

日本文化が作り出した《里山》は、おそらくは地上に実現されたもっとも巧妙の構成された「モジュール ケネー(重農主義の構築要素)」の現実形態である。
里山》は、生物多様体としての外的自然の要求する自然の論理と人間の福祉のための生活論理との相互交渉の産物としてつくりだされた見事な媒介システムである。
里山》の構造を組み込んである人々の暮らしは、同じく「モジュール ケネー」の構造を持つ芸術や芸能、贈与原理を含む一般交換の仕組みとも親和的である。


御所山のお山はクリスタルのビッシリ詰まったお山です。

この廃屋の家のある里山の岩盤も。













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