あらえびすブログ

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新しき蝦夷 銀河縄文原人が創る 皇の時代の宇宙国建国までの舞

斧のみで、二千五百本薪を用意していた、伊豆の頃。

そして、築百年の東北の農家の廃屋を、改装しながら、五個の薪ストーブで長い半年の冬を越えるために二万五千本の薪になり、始めて買った薪割り機。

そして、果樹ではネジ曲がっているために、跳びはね危険だからと、買わせて頂いた、横綱級の薪割り機。

今では、乾燥の為の並べ方も板について来ました。

大型動物の解体もまだ二頭ですが、大きな経験でした。

そして、薪割りも、水汲みも僕のなかで、本当の僕との出逢いを創り育ててくれています。

ひたすらに感謝です。

毎冬事の準備が、新しいキアスムビジネスを目指す水汲みが、僕の魂を磨いてくれています。

ただただ自分を高めるのみです。


昨日の最後の鼻、皮膚、口、耳、目の順番で一つの関心、一つの焦点に集中され、その時にはじめて、ただのモノの授与が贈与の行為へと変化を起こす。

それは、I社の取締役が売らないお水という仕組みを感じるために、この地に来ていただけたことにも現れ始めたと感じています。

専務が元々、深い深い思考をお持ちの方で、ハーブテイーを売り、それで体も心も経済も豊かになろうと提唱しているかぎり、お水なくして成り立たない仕事。

ならば、当たり前にソロソロ自然界からの恩恵を、事業に確りとのせたいとのお考えとの一致から、会社あげての事業にと決めていただき、先ずは行ってみましょう細かい事はそのあとでと、ワザワザ直ぐにお越しいただいたことは、この自然界の繁盛と、人間の繁盛を共生出来るはずと立ち上げた僕の事業に、一緒に何回か御神事に出向き、事業の打ち合わせを二回東京でしただけで、きっと専務の《鼻》が行かなくてはとの行動を起こしていただけのだと思っています。

そして去年、無我夢中で改装した家の様々に、I社の方々だけではなく、今年の雪の残る早春の頃からジワジワとこの事業関係でお越しのの訪問者を、満足させる空間、そして勿論僕が二年かけて探した、この地の理の全てに、何ヵ所かの水源地の景色に、勿論お水の味に、それを磨く岩山に感覚で触れていかれるようになりました。

これは、《皮膚》のなせる技。

そして、そこから口で伝え、耳に届け僕の直接関わらないところでも、確実に何かが進んでいます。
弱い自分はまだまだ、その直接に関わらないところで動いている無意識をデーンとして待つことが、出来ていませんが、こんな時ほど、今冬に泉郷を訪れるかたが多くいらっしゃるであろう直感のもとに、皆さんに暖かいみんなの家を満喫して頂きたく、薪割りが進みます。

今年の露天風呂や十五人は入れる、ダイニングサンルーム作成も、僕なりに《鼻》でキャッチした直感にたいして、折角飲まれているお水を感じるためにお越しの皆様を、暖かく迎えて差し上げたいというおもてなしの心が、自分の皮膚を通して、一つ一つの俄大工等の百姓仕事に精が出るのです。

そうすると訪問者側、伏流水サポーター側とお迎えする僕とお山の間に同時進行で、この《鼻、皮膚、口、耳、目》が二重螺旋で動き、それが出逢うときに、捻れ交差が起きていることに、気づいて来ました。

この五つの特性こそが贈与を生み出す生命力の姿なのです。

今アラエビスはやっと殻を割って、このむき出しの空間の世界でも螺旋が生まれる動きを理解し始めたのでしょう。

そういえば子供は螺旋で生まれるのに、早いと幼児期に直線に直されます。

やっと現実もそのようになり始めてきたのでしょう。

これが昨日も取り上げた《クラ》なのかなと、直感が捉えています。

不思議なのは、直接関係してない人や団体に、意識が無意識を通って手渡されていると言うことが、とても増えて来ています。

無意識の通路で手渡され、贈与が産み出され始めていると感じます。

きっとこれこそをシンクロニシテイーと言うのでしょう。



中沢新一さんは、《野生の科学》のなかでこのように言っています。

スポーツをただ観客席から見ているだけでは、、実際の競技の現場において、スポーツマンの身体と心の内部で何が起こっているのかを、内在的に理解することは出来ない。
それを本当に理解できるのは、内側からの体験を適切な言葉で表現出来る能力を持ったスポーツマン本人だけである。
芸術的創造の秘密を理解できるのは、創造の瞬間に起こっていることを正確で深い言葉で表現することの出来る芸術家本人である。
クラは、芸術であり魔術でありスポーツであり同時に交易なのです。
そうだとしたら、それを表現できるのは、クラを実践している思索者自身をおいて、他にはいないのです。
今人類学研究は、実践者みずからによって探求された内在的人類学の段階に入ったのです。


僕のワークの中級に構える《天風地の舞》はまさに《クラ》の形を示していたのです。
この舞に抜け落ちていたのは、縄の持ち替え行為でした。
これで見事に五人の中に二重螺旋が生み出されます。

シュタイナーの幼児教育や障害者教育に、カタツムリの殻の中を創造で歩くという、カリキュラムはまさにそれだったのです。

世界の成り立ちを、体感させることだったのです。

さて、やっと魔術と螺旋の繋がりに入れそうです。

木は森の生命体ですから、充分に魔術的な存在です。

先程から書いてきた、《鼻、皮膚、口、耳、目》という五つのすぐれた特性の構造を持った生命力が螺旋を創る。

木はたんなるモノではない。

なぜなら、木は森に住む代表的な螺旋の存在。

木は自らがこの螺旋の構造を備えている。

二酸化炭素を螺旋で吸い込み、酸素を螺旋で吐き出す。

それもフルボ酸鉄をタップリ含んだ、水を吸い上げる運動にのせて。

そして、そのフルボ酸の原料の葉っぱさえも自分で生み出す。

この動きこそが精霊なのです。







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