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あらえびすブログ

あらえびすのブログです。各プロジェクトや、日々のこと等情報発信。代表東出融の過去記事、Facebook発信のまとめもみることができます。

新しき蝦夷 銀河縄文原人が創る 皇の時代の宇宙国建国までの舞

昨日は、夜行バス往復という、一寸体にこたえる出張帰ってのこの景色は、僕に間違いなくZERO化を創ってくれます。

法人第一号サポーターになるI社の取締役三名様のご訪問時、僕の手作りの自然素材の舞台件土間から上がれる客間で専務が、「うちもこういう場にもう本社を構えないとね」というお言葉には僕らが如何に急速に自然界を体が欲しているのかという気配を感じました。

きっと三年前なら、「気がよくて良いね。たまにはこういう場に来なくてはね」になられるのでしょうが、実はビジネスにも今急速にキアスム構造を取り込まないと先がないのではとの直感が、生まれてきているのでしょうか。

あらかじめ予測して計画をたてておくことが出来ないもの、客観的に扱うことの出来ないもの等の要素が、私たちの生きている世界では、実はもっともっと都合の良いもの悪いものという分断思考とは別に、大きな大きな働きをしていたと震災から始まりその気付きの波は、東京に本社をおく企業にさえも直感が、なにがしかの方向性を示唆し始めた気がするのは僕だけでしょうか。

お金に換算できない何かが、実は底辺を確りと贈与思考で繰るんでいたから、実は成り立っていただけで、それが消えた瞬間ジワジワと崩壊への道を転がり始まったという事ではないでしょうか。

全てものがお金に換算される可能性の高いのは、お金に強い分離作用が潜んでいるから、物と人格の繋がりは切断されて、商品として交換できるものに変わります。

即ち貨幣が悪いのではなく、物々交換というそのある瞬間での等価交換が貨幣を生み出したのです。

例えばキアスム構造がわかりやすいのが「百姓の農」でしょうが、人間が自然に働きかけてはじめて成り立つ、循環交差による、富の増殖です。

三次元をも捨てないで、三次元を越えてその先に進むには、まだまだ三次元だからある場で貨幣経済をしながら、違う場で三次元を越えたものを取り入れるのとは、全く違う事だと僕は思うのです。

その思考では既に分離が起こっているからです。

農の場合、心を込めて耕す、よく土の状況を感じとって肥料をいれる、植物の生育にふさわしい自然条件を人間側で整えるなど、自然に働きかけて自然がそれに応える形で収穫をもたらすので、富はキアスム構造から生まれでるとわかりやすいのです。

山菜取りも、絶対に何割かを残す。

僕も心をこめて汲むときは、お山にたいしてお山の状況をそこでの水の量や山の気配との関係から探り、この先に続く植林計画やその先に出来るかぎり人を拒む世界を残す方法を感じて、いざ持ち帰りボトリングするときは、飲まれる方の家族に、お山の愛力が届きますようにとボトリングしています。

これがホースで給水ポンプ車に汲ませては、観ること感じることが抜け落ちる。

ロハスにお山への想いをのせて飲まれるとしたら、さぞかし素晴らしい創造力です。

だから水源地を訪れたくなる、自分ですくって飲みたくなる。

その結果その体験を持ちながら、都市で水源地の水を飲むたびに、お山と会話が出来る。

それをI社の取締役専務は、見事にご理解してくれました。

僕が動物の解体を体験したのも、有り難く頂くの本質を自分の身体の記憶に刻みたいからです。

それを共に体験出来る瞬間にこそ、絆は成立します。

命を頂く血をみる行為、生暖かなさっきまで生きて何かを消化させていた臓物を通して感じる触覚的な行為、残虐な命を貰ってしまったという行為、大事に育てた一頭の家畜の笑顔や想い出、野生ならこの動物がいることで成り立つ綺麗な伏流水、これをカップルで親子で友達で共有してこその絆だと思うのです。


昔はそのような仕組みを持つ《クラ》という交易を、先住民は我々よりも遥かに高い感性のもとで、現実化させて守ってきました。

きっと昔の、ヒイバアチャンからの指輪をねがいを込めて、新妻に結婚指輪と渡すような行為がそれに近いのかもしれません。

僕は景子との結婚指輪は、日本刀のツカを指輪にしたものと、決めています。

これは、その事の実践の現れでしょう。

きっと、ポプラの山を守りそれで創るルイヴィトンのバック造りも、それが商品にのっていたはず。

今では、ただのマークで終わってしまっている。

この《クラ》には二重螺旋の逆回りの行為が、きちんと形で継承されているのです。

それを儀式と読んだと僕は思います。

自然を仲介者としたうえでの人格的な結び付きを、商品に介入させていないのがいまの商品です。
無縁になってしまった。

しかし《クラ》では、以前の所有者の人格の一部がモノにこめられた霊性や過去の付き合いの歴史、冒険の記憶と共に、相手に手渡されていた。

ヨーロッパの田舎には、まだまだこの伝統が色濃く存在しています。

菅家代表の美し国の儀礼の会にもこれがあり、僕はしびれてしまいました。

高沼先生のハルチ、ウムチ、ツヅチ。を大事になさっている行為にも。

中沢新一さんが仰られるように、この互酬性こそが、産業資本主義によって解体仕掛かっている人間の自然界も含めた社会性を甦らせる有力な原理であると感じています。

ですから、《クラ》に代表される贈与=互酬性の交易と物々交換から発展した今の産業資本主義とは、大きな本質的な違いが存在しています。

物々交換から本質的な贈与のシステムが存在する、等価交換が発生することはあり得ないのです。

そこには外から観察していてはわからない歴然とした違いが、交換の内側から体験すると、ハッキリとわかるのです。

水源地を訪れたくなるように、どうやってお水を飲んで頂くか。

それは水源地というものが巨大な贈与システムであり、自然界とは完全な贈与システムであることを水を通して等価交換して頂き、では僕らはお山に、何を返せるのか返し続けるのかという、今では抜け落ちてしまった事を思考し続ける装置こそを創ることが僕にとっての水源地からのコミュニテイーの作成なのです。

リニアからスピンへの移項です。

リニア=線型、スピン=ひねり。

落語のようなひねりの思考。

広がりはリニアには創れない。

螺旋はひねりを内在させた運動が作り出す非線型=ノンリニアな空間です。

この三日ぶりの泉郷の、広葉樹の芽吹きは、螺旋で春が訪れる様子が見えます。

うまく写真に納めれませんでしたが、春がまだまだ螺旋で訪れないお山の中腹から、冬を無事越して生まれた赤ちゃんを連れた野生の猿の群れが昨日は五十頭ほどで、春の里に降りてきていました。

完全なクラが行われるとき、五つの優れた特性である、鼻、皮膚、口、耳、目の順番で焦点に集中されてきます。

そのときにはじめてモノの授与が、一つの贈与の行為へと変化するのです。

目的に向かうあまり閉じるリニア思考を、多次元に向かって開かれた螺旋思考に飛躍させることで、はじめて物々交換から発展した今の産業資本主義を、もう一度贈与資本主義に変容させれる力を持てるはずだと僕は信じているのです。

これは魔術という真の意味を僕らが再認識することにも、間違いなく繋がっていくのです。

魔術を胡散臭いものから、螺旋が生み出す多次元思考に昇華させた時に、この世からスピリチュアル商売は、なくなっていくはずです。

真のスピリチュアル商品は、完璧な美術品を生み出すほどの、坂田甚内さんレベルでしか生まれないからこそ、意味合いを持つのだと思うのです。

きっと僕は、もしもポルシェやマセラッテイーやベントレーを買えるお金を所有しても、きっと坂田甚内さんの器を買って、これから代々伏流水と対話し続ける意志を引き継ぐ大きな心の表現として、手渡して行きたいと思うのです。




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