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あらえびすブログ

あらえびすのブログです。各プロジェクトや、日々のこと等情報発信。代表東出融の過去記事、Facebook発信のまとめもみることができます。

新しき蝦夷 銀河縄文原人が創る 皇の時代の宇宙国建国までの舞

無分別知の生き方を実践しよう

昨日に引き続いて、無分別知の巨匠、深沢七郎さんの考え方感じ方から、僕らの今後の持つべき思考の在り方を紐解きたいと思います。

一夜明けて、今日は分別知の街東京にいます。

東京で一番好きなのが、東京です。

何故かは解らなかったのですが、無分別知への入り口DAKARAなのかもしれません。

東北なら上野や大宮もあるじゃないと思われるでしょうが、大宮は東京のベットタウン。

だからかえって、遠くに感じてしまうのです。

きっと昔の東北は、上野駅だったのでしょうね。

でも今は、東京駅こそが無分別知への入り口であり、分別知への出口です。

だから高速バスも、東京になってしまいます。



祖の時代の縄文の頃は、日本列島に生きている人も、アメリカの先住民も、ユーラシア大陸に生きている人も、インドに生きている人も、インドネシアに生きている人も、オーストラリアに生きている人も、心は同じ仕組みで生きていました。

我々の近代文化の先にある普遍的な文化は、世界文化であると考えがちですが、欧米の意識形態や文化の次の形態を世界と呼んでいるにすぎなく、我々が今後目指すのは、世界ではなく、普遍なのだと中沢新一さんは言うのです。


此れは僕の中でも、普遍のなかに居たにも関わらず、東京、ニューヨークを経由して、やっと世界ではないと気づき、一時期三島由紀夫のように、仮面である自分に出会い、そのしたに有るであろう本当の顔を求めて、この泉郷に辿り着き最近やっと、そのしたにある顔が見えてきたのです。

それは、自分の初期化であり、それこそが庶民の姿であると思えるようになったのです。

一見すると、今の活動は特別なことのように思われますが、庶民になってこそ実現することです。

庶民とは、個人に起こることは、個人にとっての問題ではなく、それを越えた大きなまとまりへの問題であると言う考え方です。

貴族や職人が作った一部分を、自分の役にたつところだけ取り出して、自分の世界に引っ張ってきて利用して、後は適当によい意味で誤魔化す庶民感覚。

此れを人類学では、プリコラージュと言いますが、フランス語で日曜大工を指します。

所謂、僕の大好きな俄大工。

その辺に転がっている、まったく別の用途に使っていた木切れを拾ってきて、直してしまったり、全く違う用途のものを産み出してしまう事です。

ホルモン流儀として練習し磨き、下に創るコミューンのクラブハウスは、全てがこのプリコラージュの宝庫にしたいのも、みれば観るほど発見が有るからです。

それだけの為に作ることをしないで、今まで自分達の世界にあったものを適当にそこへ持ってきて嵌め込んで利用してしまう。

このような構造の市場経済を生み出せるか否か、大きな大きな冒険ではあるけれどもそこに遊び感覚がないことには、絶対に生み出せないのもご理解頂けることでしょう。

この庶民の世界ほど、奥行きの深いものはありません。

此れはプリコラージュな生き方をして三年が過ぎて、ハッキリと自分に言い切れることです。

一口で無分別知というのは容易いのですが、それを本当に手にいれるには、まだまだ鍛えなくてはいけません。

そしてそれを平然と貫き生きた深沢七郎さんは、本当に偉大な巨匠です。

おならのような事ばかり書いてきたのですから、中沢新一さんが仰るように、偉大にして下品な文学であり、それは庶民というものが、如何に下品にして偉大な存在であるかを見抜かれていた
本物のアーテイストであったのでしょう。

このような巨匠が自分よりも遥か前に、この生き方を貫かれていたことに、僕は勇気を頂き今日も又一歩進めるのです。


そして僕の場合、人と自然界の無分別知を追求して、そこから生まれた代行伏流水汲み上げ業です。

それは、それを長い歴史のなかで追求してきた地《東北の里山に住まう》KARAこそ生まれでた、無分別知が創る経済と無分別知が創るコミューンなのです。




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