新しき蝦夷 銀河縄文原人が創る 皇の時代の宇宙国建国までの舞
今日は、セルピュア試飲一日目。
お水にセルピュア一日八滴×三回、シリカフォースは十六滴×三回。
一回で、全身に酸素が供給されたのがわかり、体がメチャクチャ軽いのです。
これは期待できます。
脳にも供給されたのが凄くわかり、頭が冴えます。
流石にアルピニストの野口さんがこれで高山病が殆どないと、仰るのがよーくわかります。
御所山の御神場に行った感覚と同じです。
御所山の伏流水と、マッチングが素晴らしい。
今はこのイオスのジェイソンテイーと
今後はララシリーズを、景子にも試して、これも肌に取り入れたいと思います。
きっと僕には無縁ですがこのララシリーズのシャンプーは、素晴らしいはず。
そして新商品の、ケールの二百倍の、徳之島のマーザスも、近々直ぐに取り寄せて実験します。
霊芝入りのコーヒーで、スターバックスの世界的なシェアを越えようとしているオルガノコーヒーとお水のコラボはこれからですが、この三点の会社と、神示秀明会さんが日本の伏流水とのコラボに漕ぎ着けていく、僕にとっての魂の繋がりチームメイトです。
セルピュアのピュアライフさんは、御自身で菅家先生のエネルギーで、美し国という社会貢献と神事のコラボが出来上がっておりますが、後は起業を立ち上げられた方の、もしくは関わる方個人レベルでのコラボが現状です。
そして、人間の体としての自然回帰には、商品を通じて皆さん取り組んでいらっしゃいますが、地球のお山という子宮そのものも、もう一度自然回帰に向かっていただくという部分を考えて、試行錯誤で取り組んで来たのが、あらえびすの活動事業です。
お山も酸欠不足です。
それがそのまま今の食品に反映されています。
もう、野菜からは直接栄養素がとれない状況です。
農家さんの土壌改良には、放射能の影響で今様々に積極的に動きがありますが、お山の健康回復からもう一度フルボ酸鉄がタップリ含まれた農業用水を回復して、野菜に栄養素を取り戻すには、お山の健康回復とその下の里山での過疎化による放棄田畑を、米や野菜を頂くという直接の目的では直接の収穫量が少なくても、あえて今取り組む必要性が凄くあると感じて、起業した法人あらえびすです。
その為には、凄く遠い地球の子宮内部の環境回復に、あえて飛び込んだことなのです。
経済こそを根本から見直して昇華させるという、BIGchallengeは、ネットワーク業界から始まったものの、全てがそうですが、いつのまにか、グローバル資本主義に飲み込まれていきます。
今こそ皇の時代の縄文としての新時代を、新時代の経済で実現させると時が来ていると感じます。
祖の時代の縄文は、ブツブツ交換でした。
そして祖の時代の弥生が2012釻12で幕をおろしました。
即ち、祖の時代の弥生が培った、グローバル自由資本主義が終わったのです。
ここで安易なレベルでは、一気にブツブツ交換に戻るという思考にいきがちですが、祖の時代の縄文と皇の時代の縄文では、全く違うものに進化させなくてはなりません。
祖の時代の原始信仰が祖の時代では、宗教という一つのイデオロギーになっていき、結果神事は怪しいとなっていき出したのが、祈りと口コミを結びつけた新興宗教のビジネス展開といういく末でした。
僕ら自身の闇が生み出した、サリン事件でした。
一方でネットワークという口コミとビジネスを合わせたものが、見事にアメリカのグローバル自由資本主義という祖時代の経済に飲まれてしまうと、ネズミ算という怪しいものとなって、口コミとビジネスを結びつけたいく末の結末でした。
ここで見えてくるのは、皇の時代が実は僕らの無意識に語りかける、未来型コラボが祈り、経済、口コミで終わっていた事実です。
祈りと口コミを合わせたものにも、回すのにビジネスが欠かせません。
そして口コミとビジネスを合わせたものにも、祈りは欠かせません。
結果、口コミビジネスから始めても、そこに祈りを導入せざるおえなくなり、同じく口コミ祈りから始めてもそこにビジネスを導入せざるおえなくなり、結果ただの二者択一の変形型になってしまっていたのです。
しかし本当は、そこに数学的経済学的な自然界と数学的科学的な宇宙界が関わる、五芒星になっていなくては、皇の時代のビジネスには、発展しないのだと感じるのです。
それがワークで幾何学に、重点をおいているという、僕の中の無意識の現れです。
ここで見つめ直すのが、《カタラクシー》という古代ギリシャ人が表現しようとしていた、言葉です。
このカタラクテイクス、即ち狭義の経済学の領域は、市場現象の分析であるとミーゼスは、提唱しました。
貨幣計算を基礎に行われる人間行為の分析であると。
これでは本当の経済学でなかった。
即ち、貨幣経済が生み出す、病や自然崩壊までもが含まれた全体思考が、経済学の本当の姿だったのです。
どうやったら貨幣的に儲かるかは、実は経済学ではなかったのです。
直接的交換のみが存在する市場は仮構にしぎず、貨幣と貨幣計算は、市場の存在によって規定されていると言い切ったミーゼスは、無意識はそこに一切存在しないかのように、病的な現象として、健全な経済社会が無視すべきものであるかのように、残念ながら取り扱われてしまったのです。
祖の時代の経済の大きな過ちなのです。
僕が海外で振り付けしていた特に、如何に作品作製の投資家の原資を増やす振り付けであるか、説明させられた時と同じく、大きな過ちなのです。
しかし中沢新一さんが仰られるように、心と市場は同じ構造をしているのです。
ワークで肋骨内部の心の在り方を伝えるとき、《肺》という字から、体を通して心で知る市場のドーナツ型の在り方なのだとお伝えするのはそこです。
近代は異常に無意識が抑圧され、《敵を味方に変える》というもう一つの交換が徹底して抑圧され見えないものにされたのです。
敵とは、自然界の驚異です。
それを驚異ではないものに交換することが市場の役割だったのです。
そして今、心の壊れは見事に市場で起き、市場での壊れは見事に心で起きているのです。
単1の合理主義な思考が何を壊したか。
mont-bellも今残念ながら、アウトドアのユニクロを目指しました。
このつけは大きく捉えると、安易な安い装備で自然界に入るものを増やします。
mont-bellにとっては、良いでしょうが富士山が人で溢れ崩壊に向かったように、大変なつけが生まれるでしょう。
人が安易に入れない自然界こそがなくてはならない自然界です。
だから水が守られていた。
熊によって、岩山によって拒まれ、そこの《場》に入るには山伏のように、自然界を体で知り得る掟がよい意味の拒みを作り出していたと思うのです。
お山は、想いを馳せる場所。
だから端山留まり。
入れる人は、里山に暮らして、お山から恵みを取り、をきつい自然環境で暮らす人か、山伏のみ。
唯一入れる時期はお祭りの時期のみ。
だから霊が35年端山に宿り、それ以降宇宙に戻るまでは、更に人ひきつけない出羽三山にいくという、端山信仰が加わった経済学が、今こそ着目された上で、進化させるものに昇華させなくてはならないと感じているのです。
《い》も《ち》も霊力の言葉で、《いつく》とは、本来神々を招いてお祀りすることでしたから、《祭》とはお祀りであり、神々を招いて行われる、ご神事なのですから踊ったり騒いだりするだけの祭も見事にすり替えられました。
全く違う市場にすり替えられました。
お祀りの場は地霊力が強い場所でなくてはならなく、虹の立つ場所でなくては、市場を開くことが出来なかったのです。
そこは勿論、山と里の境界であり、水と深く繋がる強い場です。
だから、ナチュラルアートフェスを、開催するのに、まずは新しい伏流水市場を新しいシステムで構築してからと考えているのは、大きく何か一番大事なものが抜け落ちるからです。
山の神様を《いつく=接待する》祭の場が、地力の強い境界線に設けられ、そこに市が生まれ、それを市場と呼んだのです。
山の領域を里に住む人間は、大変畏怖していましたがそれは迷信ではなく、人間の理解や制御の外にある、《物そのもの》としての領域であったからです。
神性な山はタブーの領域とされ、里と山は潜在的な戦争状況にあったと、里の者は理解しているのです。
物は、山そのもので、今の物欲の物を指してはいなかったのです。
ここでも解釈の大きなすり替えが起きたのでしょう。
そしてこの里と山を結びつけるのが、本当のトリックスターであり、シャーマンです。
都会に暮らすシャーマンでは、いけないのです。
トリックスターは、社会の内側の存在であると同時に自然力を現す外側の存在でもあり、トリックスターの身体を媒介して山からの贈与を手にした沢山の山の神々が市場に群行していくのです。
これで恐ろしい山の神様が人の畏れの対象から外れ、社会に富をもたらす福神と変身して歓迎を受けるのです。
そして市が開かれたのは、厳しい冬の祭の季節でした。
僕の除雪の楽しみは、伏流水の神の子供に雪が感じるからです。
即ち雪掻きは、僕にとっては冬の祭事なのです。
そもそも《ふゆ》はふやす増殖を季節にあてはめた訓読みです。
ですからカタラクシーとは、自然力との間のエネルギーの交換であったのだとおもうのです。
即ち、カタラクシーの空間として、里と山の隙間は整えられていなくてはならなかったのです。
中沢新一さんが言われるように、人間界のそとにある潜在的な敵が生み出す力を、味方に変える
、媒介の様式を作り上げ、目に見えない自然力をコミューニテイーに入れることが可能になった暁でないと、その空間に見えるかたちの今の市場を作ることは実は出来なかったのです。
人間同士が、貨幣によって、ブツブツ交換によって市場を実践する前に、人間と自然力の交換を実現出来ていなくてはならなかったのです。
これこそが本当の意味でのカタラクシーなのです。
ですから二種の層の違う市場(捻れ構造の無限大)を繋いでこその市場だったのですから、自然界が悲鳴をあげ、僕らの無意識が大きく抑圧され精神病を引き起こすのは、もっともな結果だったのです。
それを無視し続けた僕らは、合理的な愚かな者に成り下がったのです。
自分達人間の思い通りにならないを前提で暮らしていた未開の地の民が、思い通りに全てを進めようとする、グローバル自由資本主義の民に違和感を持ち、人間と動物は兄弟と捉えると未開の民を、グローバル自由資本主義の民が幼稚に捉えたのは、なんと論点がずれていることでしょうか。
この未開の民に似ていたのが、古代ギリシャ人でした。
哲学はだからそこから生まれたのです。
市場の本質への冒険がいよいよ始まったのです。
その冒険の実行でしか、私たちの経済学は大きな進化を実現できないのだと、僕は信じています。
ですから《お山繁盛》が先で、そのあとに来る、《家内安全、商売繁盛》なのです。
今ランデブー出来そうな、ジィソンテイーもオルガノコーヒーもセルピュアも水あっての商品。
ご飯いっぱいを作るまで、米を育て収穫するまで、なんと1500リットルの水を使っているのです。
見えない地下水独占は、いつ日本の淡水を壊すかわからないほど、怖いギリギリの状況。
ペットボトル水需要の急増、森林水田の荒廃、手を打つのは今しかない。
富士山の沈下、八ヶ岳の沈下、このままでは日本の地下水は枯渇します。
もう水は買うものから自然界からいただいているという意識改革こそが、その重要な唯一無二の方法だと僕は感じているのです。
飲む人が飲みながら、自然に自然界と繋がる潜在意識とつながれる市場の形こそ、今急速に雛形として世に出していかなくてはならないと、今日もこの地で感じ、シャーマンがお山に戻れるように僕はミッションを遂行しに、今夜又、前時代的な市場の沈下寸前の東京に出向きます。
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