あらえびすブログ

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舞 50 いよいよ地球さんイイコイイコ体操の撮影が今日です。

振り付けや絵画、彫刻、音楽等は、現代アート的でも、クラシック的でも、バロック的でも、子供から大人まで無邪気に楽しめる大衆芸能的でも、どれもが今と言う瞬間を無意識に切り取ってしまうものです。
僕が大好きなマークロスコの現代絵画は、時間が時たま止まり、絵に自分が吸い込まれていく、そしてある瞬間、自分の存在が時間と時間の狭間に色と色の間に埋没してしまう。
この部分と睡眠をアートにしたくて、僕と彼女の寝室は、赤系の色でグラデーションになっているのです。
タンスまで塗ってしまいましたが、まだまだ立体抽象絵画としては、完成していません。
来年はキッチンを、一つの対面式キッチンを持つ、レストランの個室をイメージに、青のグラデーションの天井の中心にロータスの花の写真をコラージュしまくろうかと、目論んでいます。

僕にとって来年1年のテーマは、【移民の唄 (地球と共に赴くままに)】です。
レッド・ツェッペリンが歌った移民の歌が、青色のグラデーションの中にパッカリと口をあけて、ロータスが花弁を開き、その中心に真っ赤なツエッペリン号が吸い込まれていく。
ロータスの花びらの上に一滴丸々と、豊満に生を謳歌する露が、地球のコアに滑り込む時を待ち構えている。

留まりたいと同時に流されて中心に運ばれたい。
この【生と死】に代表されるような、脳の中で生命をギリギリ司っている原点が、スイッチを切ると死の世界に、そこをギリギリとどまる。
この脳死のような世界に一瞬生きて、自分の創造力で時間を最大限引き延ばしながら、その危ういエロスの瞬間を、動き続けて体の記憶に残そうとモガク感覚がアート何だと、僕は、感じはじめているのです。
此れも十一月が与えてくれたものの一つです。
凄く大きいなプレゼントですね。

僕らの人生は、たかだか生きても百年。
この間よくも、事故にも合わずに生きていた。
実はそんな、生と死のギリギリのヤジロベーの真ん中で、揺れ続けていた。

問題はここで、一瞬一瞬の全ての感情を感情のままに後悔ないように、体に刻んだのかという事。
悲しいことも怒りも不甲斐なさも勿論ポジテイブナ感情も。
以外に僕らは、ネガテイブな感情を体に刻もうとしないもの。
だから、苦しくなるって思うのです。
例えば怒りの理由、対象を見つけようとしている限り、怒りという感情そのものに、ツエッペリン号が到達することは、不可能なんです。
そして怒りや悲しみ、不甲斐なさ全てのネガテイブな感情の大元にたどり着けたとき、その感情は風船でしかなく、中の空気が消滅すると、その感情も消滅してしまうものだったんだとわかるのです。
その空気は、違う色の風船に入ると、僕らに又新たな感情を伝えてくる。
だから、重要なのは、風船ではなく、この風船に入り込む空気。
此れがそのままでは、あるけれどもあると存在して認識することは、不可能です。
けれども風船という対象物の力を借りて、やっと存在を顕に自覚して生きようと出来る。
まあ厄介な生き物ですね。
人間は。
アートをアートと認識しているのは、人間だけ。
以前blogにかきましたが、フグのオスがメスを集めて交尾するためと、外敵から卵が存在を脅かされないようにするために、本能でつくる、ミステリーサークルがあるのですが、あり得ないほどに美しい幾何学模様です。此れも僕らはアートと呼ぶでしょう。
けれども、そこには【エロスとタナトス(生と死)】の狭間から抽出されたからこその、危ういギリギリの、美しさがあるのです。
僕の大好きな、堀さんの作曲はもろに、このエロさなんです。
だからきっとホリリンモンローは、実はきっと音楽やってる認識がないままに、気付いたら音楽になってしまっているという、フグのオスそのもののミステリーサークルとしての作曲。
だから美しい音を感じるのです。
その危うい所を危ういままに表現するしかなくなった。
その一瞬にしか生きると感じる瞬間をを見いだせない時に、人間は、瞬間をしっかりと切り取って、身体に刻みたくなる。生きていたんだって言う証拠を身体に刻みたくなる。
きっと本当はタトウーは、その証の一つだったのだと思う。
今では、ファッションになってしまっている殆どが。
音楽も、振り付けも、タトウーも。

先ずはこのタナトスギリギリのエロスの瞬間を、山ほど持っている地球さんの、一瞬を自らの体に刻むくせを身に付けようよ。
紅葉も桜満開も一瞬の目のそらしかたで、この瞬間に出逢うという人生にとって、一番有意義な時を失う。
此れは一つの【死】を美しいと言っている。
よーく考えてみてほしい。
その木のどんな1年を知っている。
なのに美しいと言っている。
色にではないはず。
落ち葉が自分ならば、ソロソロ木の枝から落ちそうなんだから、それを早めるように、夜間冷えるなよって言いたい。
そして僕らは怒り、ホテルのフロントにエアコン寒いから、設定温度あげてと、ほざくだろうね。けれども広葉樹は、美しさを追求する。
此れから寒いから、生命が息づく生き物もいる。
だからその為に身を捧げる。
この紅葉が朽ちて、あの伏流水に含まれるフルボ酸をつくる。
そのフルボ酸と伏流水に含まれるイオン鉄が恋をして、フルボ酸鉄が出来る。此れが海では魚を育てる。畑では、野菜や果物を育てる。
タナトスは、本当は、美しい。
この生命体で一番美しいのが【死】であると思う。
ただし、それは、山ほどの不条理な【生】を生きたから美しくなれる。

だから美しい前は、まあまあ醜い。
生きるだけ見ると醜い。
だからs美しいのは、死の瞬間で良いのだと思うのです。
醜い部分もしっかり生きる。
生きれば、体験した生命の空気は、違う風船を探す。
だから運命から逃げたらアカンのだと思う。
だってその辛さが美しさを引き出すチャンスだから。






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