あらえびすブログ

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舞 48 一回粉に感じる程に動いて、自分を単純化した。

昨日は、地球さんイイコイイコ体操の振り付けを、最大六十回を目安に躍りこみました。
歌も掛け声も動きもしっくり馴染んで、突然即興で新しい動きが入る余地がないほどに、振り付けの流れを自然にするためと、体操ですからブロックされたような筋肉痛が起きないかを調べたいからです。
無事四十五回位で、充分見えてきたので、昨日は六十回は免れました。
今日は最大八十回。明日は撮影前日で百回目安です。
此れは回数を目標にするのではないので、違和感があるほど踊って確かめるしかないのです。
そしてまだまだ、【間抜け】があるのに、シックリ出来ていると思って片付けてしまうことは、
見ないふりして、やっつけ仕事になるから、妥協の産物。
又【間】を感じさせない程に動きが羅列してもダメなんですよ。
特に、ある一つの動きを何回繰り返すかは、凄く重要。
時間稼ぎでは最悪。
同じく、単純にここはシンプルに繰り返した方が全体が生きてくるのに、振り付けを複雑にして満足しやすい落とし穴にも要注意。
動きを作るとき、特に若かった頃は、奇抜を、人と違うものを、生み出そうと必死でした。
だけれども此れが四十位から、ただの奇抜、新しい動きというパズルの部品よりも、あえてテクニックを抑える事で、あえて生まれたテクニックを捨てることで、奇抜さはないけれども、見続けたくなる動きや動き続けていたいと思える、全体としての派手ではないけれども、深い振り付けに帰着出来ていくのが、不思議です。
とっても人生にそっくり何ですよ。
若い頃は、デートでも奇抜、一発狙い。
けれども段々一年を通して、どう愛を伝えようかと考えるようになる。
そこには様々なアイテムのバランスが大事で、何処かに拘りすぎると、他が台無しになる。
勝負事もそっくり。人生を架けた夢もそっくりだなあと感じるのです。

近々、NPOフローレンスの代表の方とお逢いしたいと思っているのですが、この法人のアイデンテイテイーは、僕が伏流水の活動をベースに展開しようとしているものとほぼ同じなのです。
最近の不思議は、僕が素のまま活かされる人や団体にしか何故か出逢わないのです。

今までは、ここまでこうしてこうやって持っていくぞと、気張っていたのです。
勿論全体のビジョンが自分である程度、起承転結してなくてはならないのですが、僕のツールのその1、
【身体の素を知ることで体を自然体に戻し、自然界と共鳴できる自分を作る、身体ワーク&ライフワーク工房】
その2
【自然体と自然界を繋ぐ事を目的に動くための「舞講座」(これには歴史や哲学も含まれていく)】
その3
地球の日本の自然界の特徴である、伏流水の動き効用を体内外で体感することで、地球さんが喜ぶ事からビジネスや福祉を生み出せるシステム作りにチャレンジする】以外には、直接携わらなくても良い状況が本当に少しずつですが、準備されて来ているような気がしているのです。

まさにフローレンスさんは、幾多の困難を越えながら、さらにある困難にも全く飄々と挫けずに弱者救済ができる社会のシステム作りに果敢にチャレンジされ、実践されていらしゃるのです。
しかし、その根本になる原資が補助金や別段預金なのですが、此処にどうにかいずれ伏流水のサポーターさんから作られた余剰金も交ぜて頂いて、原資に悩むフローレンスさん、その難しい使い道に悩む、「僕の活動である伏流水が作り出してくれた余剰金」を如何に上手に社会に還元していくかという時期が与えられたときには、そのような実務には向いていない自分が無理に実務に手を染めて、失敗しないで済むような繋がりが突然出始めているのです。
それは、実際に目標のサポーターさんが揃って、余剰金を抱えてお会いするよりも前から、関わっていくと共に、意見や考えを共有していく過程が凄く必要何だと感じております。

実は此れが振り付けとそっくりだなあと最近つくづく感じるのです。
だから振り付けって、人生そのものだなぁとこの年で感じれるのです。
僕が困難な【伏流水で社会を変えていきたい】の夢にチャレンジしてなければ、振り付けを本気で人生と照らし合わせて見ることは、なかったのだと思うのです。
振り付けが人生を凝縮して、表現してしまう。
だから生きるを磨くことが、本当のエクササイズになっていくのでしょう。

生きるは、本当に追い詰められた【場】にこそ存在していて、その場だからこそ飛躍出来るのではないかなって、最近本気で思えます。積極的にリスクを人生で負うことは未来のリスクを最小限にしてくれるはず。だから逃げない、誤魔化さない、テクニックを使わない、間を見つけ出す、間抜けにならない、繰り返すことを選択するときは、微妙にきちんと度合いが変化しているかを見極めて、その流れをたちきる時期を待っているか、腹から広がった大きな腰がバザールの大きさまで到達しているか、その上で肚をしっかり据えているのか等々、全部、人生での生き方がそのまま振り付けには出てしまうものなのですよ。
怖いですよ。暴露されてしまう。
だから生き方が凄く大事だって。

そしてそんな事が、今回の地球さんイイコイイコ体操の振り付けを通して、確信を持てたことは、凄く重要なことでした。感謝です。振り付けを創る意義も、踊る意義も、自分の人生の目標に掲げているものと同じ事で、動けた事、創作出来たことは、はじめてのツールの一致です。
ノコも斧もカンナもノミも皆違うツール。
けれども木材で家を建てる等の為に存在している。
存在している根本の意味は、一致している。
だからこそツールとして使える。
だからこそツールのツールでは、ドンドン本質から遠ざかってしまうのですね。

さて此れからの二日間は、この仕上がったツールを砥石で磨くことです。
いつでも必要なときに、必要な部分が、何処からでも主役になれてしまう振り付けに。
それでこそ地球さんは何処をきっても、生きている。
シーンが違っても同時に同じ時間を、全く違う動きや想いを抱きながらも共有している。
その皆が、地球さんという大前提で、繋がったとき、僕らの生きるは、ツールに昇華できるはず。それが【無私】であり【愛】だと気づき始めています。


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