あらえびすブログ

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舞 43 地球さんにいいこいいこ体操の振り付けを完了

昨日大体午前中で、振り付けを完成させました。
ズッート目指してきた生き方のタイトルと、万人が素直に聞いたら、心に入って来る詞。
そして、万人が本当にそうあって欲しいと思える作曲だから、それを体で表すお役目の振り付けも、無理なくスッと出来上がって行きました。
これも本当に自分が今、やっとこの生活に、活動に身を託しているからだって思うのです。
結局、たち位置が決まってこその木に、周りに花が咲くんだなという、一つの結果を見ました。
そうやって創られたものは、【キス.アプローチ】でやったものです。
Keep it simple,stupid。エンジニアがよくマサチュウーセッツで使っている言葉です。
この精神が、僕も未来の子供たちの為にいずれ創りたい、サドべりーバレー学校を生み出すきっかけになったのでしょうか。
頭文字をとって、kIS。すなわち「ごちゃごちゃ考えて複雑にしないでシンプルにいけ」って言うこと。

一昨日Eテレでやっていた、マイファームに挑戦してきた、若き青年実業家の事に繋がって行きました。
市民農園耕作放棄地を復活して、その残った製品を、市場に出す。
此れはすでに、ヨーロッパ全土に広がっているやり方です。
以前blogでも取り上げた、「正しい日本の農業の絶望の仕方」という本を出されている方が書いてあった、市民農園で日本の農業の再生を図ることへのの危惧、ともろに一致していました。
彼は、そもそも市民農園を見ていたのではなく、小さい頃から耕作放棄地の風景を見ていた。
だから、塩害で壊滅的な広大な農地を見たとき、心が震え、彼を突き動かした。
けれども、それを市民農園というシステムで大きくなってしまった、会社という生き物は、創業者である彼を排除する方向に行かざるおえない。
既に道を進めているから、彼のチャレンジは、会社の利権をことごとく窮地に追いやる可能性が高いから、グローバル資本主義では、当たり前に生まれるズレ。

僕もアラエビスの活動で見えていなかったのが、僕と、参加者と、スタッフと、資本提供者が見ている風景が全く一致していなかった事に、全く気づいていなかった事。
僕は、躍りも、祭りも、映像も、養老院も、学校も、考えていた枝先の様々な花は、結果でしかなかった。
あくまでも、伊豆で土壌奥になくなりはじめた伏流水への想いから始まった。
此れではきっといつか、韓国や中国のように、禿げ山になって、結果砂漠化していく。
それだけは、自分の【美しい】と思う風景とは余りにも違った。
そして、その木を植える場を、たち位置を、ズッート見極めようとしていたけれども、僕自身が本当にそこまで、大地の奥底を見ていなかった。
庭に植える木を買ってきて、環境を考慮しないで、植樹してしまったようなもの。
見事に枯れた。
自然農の福岡さんや、リンゴの木村さんが何本もの木を枯らして行き着いたように。

あれだけ、農業を通して見ていた人でさえ、見ることは至難の技なんだって、はっきりわかった。
マイファームで代表をおろされ一度首になった彼の眼差しは、凄く同調出来ました。
けれども彼も僕も、【美しい】と思える農地や源泉を貯えたお山の風景を、見ているに過ぎないのだけれども、それこそがたち位置だって思うのです。
特に最近、強く強く。
どう言うことかと言うと、【大局観】のことに繋がるのかな。
昨日観た【剣山】という映画に通じました。
ついつい見ようとしている風景を、たち位置に勘違いしやすい。
けれどもそこを見続けるには、もっと離れた位置に立ち、進んでいく現象を見続ける位置、こそがたち位置なんだって。
言葉では、【俯瞰した眼差し】とか色々言えるけれども、見ている場には、立っている場にはなかなか気づけなかった。
そのターゲットに近づく程に見えなくなる。
その結果、かえってターゲットは、遠ざかっていく。
けれども再度、その風景が脳に見えたなら、引いた証拠。
引いても見続けている証拠。
引いて、諦めて、違う方向見たら一気に足をすくわれる。
誰に!
勿論目を離した自分に。
その自分が作り出す、架空のバザールに。

本当にバザールの【肺】の使い方がまだまだ極められていない。
此れはおけつの使い方以上に難しいと感じる。
けれども、此れはたち位置をきちんと設定したから、取り合えず肚は決まっている証拠だなぁと感じる。
座骨、仙骨、尾骨、の使い方は見極められた。
肚は決まっているけれども、実はまだまだ腰は決まっていない。
バザールを網羅できる、大きな器。
此でやっと腰が決まる。
腸骨が、バザールの隅々までを見渡して、網羅していなくては、ならない。
その土壌ならば、動くバザールの中心に、幹を伸ばして行ける。
けれども、木登りなんかしていてはいけない。
ズッートバザールの円形の広場で、吹き上げる噴水を見続ける位置で居続けなくてはならない。
そこから架空の螺旋の道で、他者が美しいと感じる原型に旅をする。なぜ旅が出来るかって言うと、ぶれないたち位置という家を持っているから。

きっと僕も、マイファームの彼も木登りしてしまったと思うんです。
ここで大事なことが、絵画の評論家で論客であった、青山二郎さんのこの言葉です。
昨日はこの言葉に導かれて、振り付けが完成出来たのです。
【優れた画家が、美を描いた事はない。優れた詩人が、美を歌った事はない。それは描くものではなく、歌い得るものでもない。美とは、それを観たものの発見である。創作である。】
これは、綺麗な棚田、田園、お山それを美しいと看取った、あるたち位置だからこそ、観たのです。
そして絵画であろうが、躍りであろうが、ビジネスであろうが、違うたち位置に立っている鑑賞者、そのなかに眠る【美しいと感じる原型】と自分の美の原型を一致させれることが出来た人だけに螺旋の道が与えられると感じるのです。

自分が螺旋を描いて、木の上に上がってしまっては、ドンドン見えなくなってしまう。
有能な絵描きが、自分が美しいと発見した位置から見続けて、違う位置から美しいと発見した人と如何に繋がるか。その為に用意されている螺旋の道。
きっとそう。
パチンコの台を、先日のデータで探しまわっているだけで、コロコロたち位置を変えている。
それは螺旋ではないと感じ得れました。
螺旋から見るのは、他者が美しいと感じる原型を俯瞰するため。
なぜそれが出来るのかって言うと、自分の美しいと感じる原型のたち位置を確信しているから出来るって思えたのです。
それが役に立ってもらうって事かなって。
それこそが水の動き、龍神ではないのかなって思うんです。

この地球さんいいこいいこ体操ダンスに親しんでくれる、まだ見ぬ人の美の原型に届くように、祈りながら振り付けを無事終わらすことが出来ました。
そして今日は、全ての人の全く違う美の原型で、蝶々さんもゴリラさんもクワガタさんも筍さんも蛇さんも狸さんも僕らも皆で、綺麗だね、楽しいね、ニコニコ顔だね、元気いっぱいもりもりだねって、地球さんを誉めてあげて、イイコイイコしながら踊っている自分が、ズッート僕の奥底にいて、エンドレスで踊っているのです。



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