あらえびすブログ

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舞 30 家族や親しい友人との間から始める【静かな革命】

ヨーロッパに以前、コンテンポラリーバレエダンサー身体意識指導に、一週間行ったときとっても驚いた事があります。
ダンサーどうしでも、恋人でも、夫婦でも、家族でも本当に世の中に起きていることを真剣に討論しあうのです。
僕も帰国後に実践しましたが、結果離婚になってしまいました。
離婚後もお会いするたびに、一生懸命この事は諦めずにチャレンジしております。
何故なら、僕ら日本人が本当の討論が下手くそだからです。
結果、討論するだけで、精神的DVと呼ばれてしまう。
これは、意見を求めても口をつぐむ相手方にも、勿論そのプロセスが下手くそな自分にも問題があります。
ですから、昨日のblogに出てきたグラッセッリさんは、日本人は、難しい社会問題になると「見ざる、聞かざる、言わざる」を決め込んで、無関心を装い、いつかきっと出てきてくれるヒーローに、思考を丸投げしていると指摘されています。
そして新書のなかで、20世紀のイタリアを代表する思想家のアントニオ.グラムシさんの言葉をのせておられます。
「自分の知らないことを知る、ということがどんなに大変な場合でも、人間はそれをしなければならない。どんなに理解することが難しいことでも、それを自分自身の力で学び、わかろうとすることを決してやめてはいけない。」
そしてグラッセッリさんは指摘します。だから日々起きているニュースをたとえ面倒も、様々な方向や角度から見直してみることや、難しい社会問題や国際問題を一面的な解釈をして済ますのではなく、色々な方向立場から考えることが必要だと。わかりやすく解説をしてくれる人が日本ではもてはやされるけれども、えてしてわかりやすい説明というものは、物事を単純化して、一面だけから見たものが多いのだから、マスメデイアの情報に単純にのるなと。

此処では極力、皆で討論しようとしています。
必ずその時いらっしるかたに、このblogも聞いていただき、意見を貰います。
映画を見るのも、其で議論して思考レベルを高めたいからです。

グラッセッリさんはそんな議論出来る新しい日本人が生きた教育で増え、街のカフェで、キャンパスで、仕事帰りの居酒屋で、家庭の中で、あるときは子供たちがいる前で、友人同僚家族が共に、自国と世界に関する政治や社会の話題を周囲の空気を読んだりすることなく、自由に熱く議論しあっている日本の姿の実現を夢見ていらっしゃるようです。

これは、一番大事な【小さな革命】です。
僕がワークで訪れる先でも、夫婦で家族で受けられておられるかたは、共に身体の気づきを餌に素晴らしい議論が出来る関係に育っていかれています。
あまりに日本は、子育て後に会話がなくなる夫婦が多すぎるのではないでしょうか?
きっと僕もそうでしたが、先ずはどんなに変な価値観であろうが其が自分なら、安易に合わせずに生きる道しかないのに、其を何となく合わせて生きれるのではと、徒党をくみすぎると反省しております。
本当の自分が確立していなかった。
其々が皆。

この山での活動も、はじめから安易に人をスタッフに率いれてしまったと反省しております。
珍しいから、始めは何かを期待して集まってきます。
人も活動資金もです。
しかし温度差があまりに有ることに気づけなかったのです。

僕は、六千万もかけて造った自給できる伊豆の家を破格な値段で捨て、引き取っていたお爺ちゃん、家族も引き連れて、最初はとても住めなさそうな雪深い地の廃屋に越した。
その為には山と水をどうにかしたいと来たのだから、相変わらず東京に現金収入を稼ぎにも出るわけにもいかない。この変人は、自分がどれぐらい可笑しな奴か知らなかったのです。
だから伏流水の汲み上げも、古民家の改築も一人を先ずは基準に戻したのです。
創りたい老育園も保育園も、先ずは、小さく自分で建てれるサイズで充分。
先ずは、一つずつこの古民家改築のように作り込んでいくことで、発見と工夫が僕の思考を育てるからです。自分との対話に、昔ながらの作業は、素晴らしいエクササイズになってしまう。
冬の雪掻きや、途方もなく感じる薪割り、砂利引きなど片付けると何だかんだこんな事かと出来てしまう。其は自分の小さな潜在能力さえも知らないから、積み上がった原木、砂利、雪を見て怯むけれども、以外にスコップと一輪車での繰り返しの作業は、七時間も続ければ、殆どが出来るものとわかってくるのです。
この時にやっと自分が解るのです。
弱さも未熟さも甘えのある思考も。
しかしお前以外、やるやついないと仕向けると、結果それなりに作業が終わって、気付く色々なものが出来上がって行くのです。
この自分を知らないで、討論、議論は茶番劇になるとだんだんとわかってきました。
例えば税金を使った公共事業で、もしこの一人での手作業感覚という物指しがあったならば、可笑しなことにはならないと感じます。
だから国会も家庭も茶番劇になりやすいと。
自分を知って変さ加減もしりそこで何が出来るかだと思うのです。

だから自分でケイトラで汲みに行くのです。
何故なら、まかり間違って、一万人が飲んでくれることになっていったとします。
その時23リットルの汲み上げ専用ボトルは合計一日五百個分が必要です。
もう本当に今伏流水は冷たく感じる。
此れを雨の日も雪の日も月に二十日続けて汲み上げ発送する。
この作業をしている自分なら、例え一万人のサポーターになっても、可笑しな方向にいってしまわないだろうと思えるからです。
普通は、売れれば売れるほど楽になる。
しかし労力も企画も全て自分の場合、サポーターが増えるほどにキツくなる。
けれどもこのキツくなるが重要なのです。
此れになれるためにも山積みの採石をスコップで引きつめたり、とても持てそうもない梁をどう動かすかなどの工夫が、その本番での作業のエクササイズになっているのです。
そしてこれがとっても潔い清々しさを自分に与えてくれるのです。
ですから家庭や夫婦や恋人や仲間と議論出来る事での【小さな革命】は、先ずは出来そうもない事や作業にチャレンジして、はじめて生まれる【自分の革命】が先ず必要だと感じます。
フェイスブックにも改築後の写真をたまに載せています。
ビフォーは何故か取ることを忘れてしまい、何時もアフターのみです。
きっと作業の大変さを楽しみに感じているから、これがこうなったと主張する必要がないのだと思うのです。






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