あらえびすブログ

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舞 26 如何に固定概念に縛られずにしがみつかないで生き抜くか

軸がないと、固定概念にしがみつきたがる自分がいます。
このblog一つにしても、常に書いた後に、自分が固定概念に縛られていないかを疑ってかかる事をしています。
昨日完成した、一輪車の荷台を使用しての、煙突を抜く屋根も固定概念からでは、生まれなかったものでしょう。
しかし僕を含め人は、奇抜な発想で世間の固定概念から脱したとしても、自分の奇抜さにいつのまにか又縛られてしまうように思えます。
だから一つの日常のアクシデントから何かを学んで、越えれたとしても、もっと良い方法があったのではないかと思い続ける事で修正し続ける時に、水のなかを転がる玉石のようにその瞬間瞬間で微妙に変化する軸を見失わない自分が存在して行けると感じます。
しかし、出来れば変化しない事が心地よく安心出来るので、どうしても自分の思考に、モニュメントをどっしりと立てたくなるものではないでしょうか。
その時に自分には軸がなくなり、モニュメントを軸にしてしまうと思います。

だからこそ玉石のように自在に変化しながらも、その瞬間瞬間で中心をとれる必要があるのではないでしょうか。
【丸】にたどり着くためには、研磨され続ける事で角が取れたときに、はじめて余りすり減らなくなります。
それが軸が完成したと言う事だと、解釈しています。
伏流水のサポーターさんで、ワークにも参加されている、G.Iさんは、心身共にぶれない軸をつくって、新しい世の中に導きたいと申されております。
僕も解るまでは、ぶれないという言葉から想像して、縛られてしまっていたのは、しっかりと立つ直線のみでした。
しかし、しっかりと直線を立てるには、土台が必要です。
露天風呂の柱の下にある石のように。
けれども重力が一点にかかって、柱の中心と出会うためには、石の中心を知ることが必要です。
その石が平面構成のブロックみたいなものよりも、いびつに丸まりその中から中心を見いだしたもの方が結果ぶれなくなります。

では、どのように自分の中に、このいびつに丸まった石を配置するかが重要なポイントになっていきます。最後には丸なのに制止もできるモノになると、柱さえ意識しないで様々な柱を乗せれるはずです。
まるで玉乗り曲芸のように。
その時に意識しなくてはならないものが、柱という自分を支えようとする位置から生まれる思考の削除では、ないのではないだろうかと思い始めています。
如何に自分を捨てて、忘れるか。
このあるようでない自分という意識は、固定概念の積み重ねで生まれ染み付いたものではないでしょうか。
一ヶ所に穴を掘って柱を埋めると、いずれ腐ります。
ですから浮かせておく。
この大地にしっかりと根付く感覚が、余りに単純な土壌での根のはりで、想像してしまいがちですが、根はこの石を土中でしっかりと抱きかかえながら複雑に張り巡らせていきます。
軸がぶれて、タシャにしがみつくとき、まるで木がツル性の植物でもないのに寄っ掛かろうとしているのではないでしょうか。
殆どの場合、お互いの根が、土中の石と言う【決意】をしっかりと中心に据えていないうに、目先の利益(金銭とは限らない)で手を取り合うから、協力したはずが足の引っ張りあいを生むのではないでしょうか。
まだツル性の植物のように、巻き付ける意識でなら、相手をたてて、其処に巻き付かせて頂くわけですから、しがみつく感覚とは、異なります。
しがみつく感覚は、間違いなく直線の意識なはずです。
そして出来るならば、相手の木が自ら立っている軸に先ずは頼らずに、自分で其処までたどり着く、【決意の石】を見つけるべきだと僕は思います。

これは、伏流水の活動をはじめて多くの壁から学びました。
相手が自分の軸を貸してあげていると思った瞬間から、何処かが一方通行になり、お互いの立ち位置が結果マイナスに向かうからです。
だから見える範疇だけでの協力は、とっても危ういものになるのです。
ある意味もっと、観るべきです。
お互いの【決意の石】を。
お互い、相手に丸投げしていないかと。
僕らの染み付いた固定概念での協力は、自分が出来るものを出しあっているようでも、実は【決意の石】がないのではないのでしょうか。
これは既に対人関係が商品化している。
労働を商品化したグローバル資本主義マクド型が、このようなよき活動と思える根底にもしっかりと潜んでいるように思えます。

だからこそ見えない土中で、如何にいびつに丸まった石を抱きかかえながらも、いつのまにかその石と自分が一体化出来たときに【決意の石】を手にして、結果軸が完成するのではないでしょうか。
柱と石が一体になるためには、重さ固さとういう相手の普遍性と、自在に根を伸ばしてその石を抱きかかえられる軽さ柔軟さのコラボレーションが必要です。
ここでも合気道開祖植芝盛平先生の【一霊四魂三元八力】の八力内の使い方が現れてきます。
引く緩める、合わせる放れるという自分がわの左右のコラボレーションの意識と自分を越え出たものとの、上下のコラボレーションに必要な固める融かす、動く静まるが理解できるヒントにたどり着けます。
石は抱きかかえられながらも、抱きかかえ流されないように木に助けられている。
勿論ツル性の植物のように、見える範疇で木を抱きかかえながらも、自分の根で更に相手をしっかりと抱きかかえ、茎を伸ばさせて頂くために【場】借りている木に対しても、更に強固なぶれない木として成り立つように、先ずは【決意の石】を抱きかかえる事からしか全ては、はじまらないのではないかと強く自分に問いただしているのです。
伏流水の活動は僕の【決意の石】です。
そしてその流動的な性質が、今までに体感のない掴み所がない難しさに直面しています。
しかし山は、薄い地表の下に大きな岩を持ち、そのなかを巡るように伏流水が流れて一つのモノとして存在しています。
ですからその中心に流れる伏流水を自分が立つための【決意の石】にするためには、お山ごと抱きかかえなくてはならないのであろうことがジワジワと感じはじめているのです。
まだまだ観るべきです。




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