あらえびすブログ

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舞 25 修羅場を受け入れる

修羅場をあえて通過する事で、其処でしか得れない体験に身を置くことには、持ったことがないモノを持って運んでみようと、能動的に生きる力が試されます。
ひとつ解決すると、其処に又新たな問が生まれ続ける、其れを又越える。
この繰り返しの中にタフさが、目覚めると感じます。

昨日はゲストハウスの下屋の、屋根に煙突を抜く作業をしました。
煙突部分の屋根には、壊れた一輪車の荷台を使用しました。
今あるモノから用途を変えて利用する発想が、今ある廃品としてしか存在していなかったモノに
命を与えます。
此れを「屋根に使ってみようかしらん」と決めたときに始めて、その廃品が命の力を持ち始めることに気づけます。
元々廃品として存在していたのですから、僕には関係のないところで生きていたのでしょが、此方が生かす場を提出しない限り、この荷台は廃品としてしか自分の脳にインプットされていません。又これなにかに使えないだろうかと思い続けていても、全くそれは使わないであろうと予測されている場から出て、用途の違う場に自分をおかない限り、この荷台と僕は、コラボレーション出来なかったのではないのではないかと感じます。

修羅場とは、なす術がない状態を脳が感じたときです。
しかし多分、その打開策は、既に身近に持っているのかもしれません。
けれども此方が発想の固い前提に縛られている限り、その打開策には気づく事は出来ずに廃品として終わってしまうと思うのです。
発想転換とは、まさに手が塞がっていたら、立つのは一本の足に託して、足の用途を変えて見ようと言う事だと感じます。
これこそが動物の進化です。
僕らは、用途に縛られ過ぎて生きすぎて来たのかも知れませんね。
それこそが打開策を、同じ引き出しから抽出しようとするマイナスを結果生み出すのではないでしょうか。
その為には守っている、鎧をあえて脱ぐか、脱がされる立場に追い込まれるしか道がないのだと思うのです。
その時、沢山のモノを失います。
けれどもそれは、もう其では此処を越えれないよというサインなのかもしれませんね。

此処でしっかり決別をする覚悟が必要なのだと感じます。
僕もこの活動で、本当に多くのモノを失いました。
このような有るもので工夫して、いる人達がもっと大きな家族という束になって、弱い人間が強い自然の中で暮らす事を我が子にに味わいさせたかったけれども、一年半前のある日突然に連れて出ていかれました。
同じサイズの紐でなかったから、束に出来なかったのです。
子供たちも此処が大好きだったから、ズット囚われて相手を責めたり、自分を責めたりしていました。
だから子供たちが残していったものに縛られ、しばらくは整理することが出来なかったのです。
東京に戻って、母親と暮らしている子供たちに逢う度に、いつのまにか彼女たちにも其処にある今を真剣に楽しもうと生きはじめたように感じれる自分がいました。
その時にこれでよいのだと、やっと受け入れ、彼女達が残していった思い出の品々をダンボールにしまい整理できました。
やっと思い出の品々が、思い出の中でしっかりと新たな生命を生きはじめたように感じました。
それから、彼女たちも本当に変わって行きました。

その状況にしっかりと前向きに決別をするからこそ、結果廃品で終わらないのではないかと思います。
ですから感じるとは、情報を捉える脳の引き出しの転換場所を探ることなのではないでしょう
か。あるとき全く違う産声をあげるまで、意識せずにおいておける【場】を見つけ出す心の整理なのだと感じとります。

例えば滅多に使わない道具が、使いたいときに何処に置いたのかを思い出せない時があると思うのですが、これこそ整理してあげなかったからですよね。
だから職人は、道具置き場をきちんと整理している。
だからこそ発想が生まれたときに、【技能】をたてる【技術】としての道具が直ぐに使えるのだと感じます。
その意味で僕の活動は、首都圏直下型が起きたときに、如何に希望者に伏流水を供給出来るかが問われるのだと思います。
その為にいつも山を観て、様々な伏流水の水量をチェックして、大きくは山形県と近隣県全体の関係や動物の移動、夏に枯れた遠くでの水源地の情報、経済に現れる自然界からのメッセジ、地震予測の情報、映画や小説、新書から、様々な人達が捉えている直観等を総合的に道具小屋に揃えて感じ続ける時に、はじめて直感になっていくのではないかと思います。

水のごとく舞うようにその時自分は行動したい。
その為にどうにかその時までにレールを引き、其処まで走れる貨物列車を用意したい。
帰りには、親を失った子供に細やかでも、生活できる【場】を供給したい。
この古民家の改装もその為に動いています。
取り合えず二十五人は受け入れられる。
長引く復興の中で、折角の貴重な体験の時を持たせれる、生活の学校も別な敷地につくって行けるように、土地も確保しているのです。

これは【技能】も【技術】も足りなくて間に合わなかった3.11の僕への課題です。
たかだか、ゲストハウスのマキストーブの煙突工事も、今年結果五台にしたマキストーブも、全てその時を感じて準備していることです。
そして、新たなマクロ型の都市としての首都圏が再生されるまで、この活動からの関連の仕事は続くであろうと予測しています。
きっと進化再生後の首都圏を、穏やかな気持ちで見届けるまでは、多分生きれないと思います。
其ほどに都市部の再生は、凄い仕事になっていくと感じます。
きっと天災後の修羅場がスタートで、その関連から生まれる食えない、寝れない、暖をとれないなどの今の当たり前を暫く奪われるだろう僕らは、今から少しずつタフになっていかないとならないと感じます。
タフと言ってもマッチョなタフさだけではなく、その時に失ったものをきちんと思い出に整理できて、あるものから再生を試みようとするタフさです。
天命が来るまで、何としても命の火を燃やして、レールを引き、走れる機関車と客車と貨物車を用意しないで、死ぬことは許されていないように感じます。
そして其処にたどり着くまでの、小さな修羅場の積み重ねが、僕をタフな人間に育ててくれている、大事な修行の場になりはじめています。
そして愈々その時に、水のごとく舞うように本当の修羅場で、小さな修羅場で磨いた自分が、動けるのかが僕の僕への評価です。その時にはじめて、白紙の画面上に舞うという、動きを世に出す資格を自分が自分に与えれると思うのです。
研磨される石は、沢山沢山削がれます。
そしてやっと水に運ばれる丸石になります。
伏流水をそのときまでに広げていくためには、もっともっと研磨して、研磨されて、この伏流水が運んでくれる自分に育成しなくてはならないと感じています。
ですから、自分は研磨されない立場にたち、その自惚れた自分が伏流水を広めるなどと、勘違いしやすい罠が、自然界相手の環境活動には多いのではないかと思えるのです。
自然界は完璧です。
伏流水は完璧です。
広がらない理由はまだまだ角がある自分側にあるのだと思うのです。
研磨されると、きっと勝手に伏流水が運んでくれると、確信する自分がいるのです。
水のごとく舞う為には丸石になること。
丸石になるためには、もっともっと自分が自分だと思っている殻を剥ぎ取ること。
そして破壊されないで丸石に近づく為には、小さな修羅場を、ドンドン通過することにつきるのではないでしょうか。





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