あらえびすブログ

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舞 24 まさにマネーボール

昨日は砂利のひきつめ、納屋に作ったコミュニテイールームの、下屋の骨組みを完成させました。脳の引き出しを開けるために。
意識してやっていくと、全く違う脳で作業している自分を発見するときが、多々ありました。
そこで感じたことは、技能とは身体性が後から発見されていくのではないだろうかという事でした。技術とは、「スベ」ですから方法論のことだと思います。
「なす術がない」ということと「能力がない」との違いだと感じました。
例えば砂利の傾斜地に、直角の骨組みを立てて、梁をのせる。
このとき、土台に何を使い、水平機で直角を見ながら筋交いで仮押さえをするなどは、「術力」ですが、その直線に元々の、百年に及ぶ雪の重さで歪んだ屋根と組み合わせる事を想定しながら、結果一つ一つに僅かな寸法の違いを巧く利用して、結果オウライに導くことが「能力」なのだと思うのです。

元々水平面に、直線の部材を組み合わせるのはある意味、出来て当たり前ですから、その想定内での当たり前が出来る力を「技術力」と読んでいるのではないでしょうか?
しかし廃材利用で、様々な違うために使っていた部材を変化させて、結果水平にたどり着くのは、技能力が必要です。
ホームランバッターがとりあえず、何でもホームランを目指す、これは【個】からしか発展しない技術ではないのかなと感じました。
しかし、あえてここはバントするべきだとか、ファーボールを選んで出塁するとかその状況にみあったその時最高の技術を選び出せるのが技能ではないかと思うのです。
まさに一郎さんは、技能の人です。

「技術立国日本の再生」とか、よく言われますが、その為に必要なのモノは、【技能】ではないかと感じます。
原料が少ない、土地が小さい、だからこそ【技術】で立ち上がる国を目指すとき、必要なのは【技能】だと思うのです。
【技能】なくして【技術】を立てられないとい言うことになります。
そして【技能】は、修羅場で場数を踏んではじめて磨かれるものなのかもしれません。
まさに【技能】として伏流水のインフラ活動に挑んでいる僕は、いつもいつも窮地に立たされ続けていますが、これこそが【場】なのだと感じれました。
少し楽になれました。修羅場での窮地が【場】ならば、其処の数をこなすことこそが、打開策に通じる唯一の道だと感じ始めたからです。
そして元々水平面でない所に水平面を見出だせなければ、「技術」は使いようがないわけで、今世の中が、水平面からモノを考えて発展させることにおいて、限界に行き着いているのですから、持っている少ないもの、危ういものという傾斜地で凸凹の土壌のなかに、可能性を【観る】事で上手く活かして其処に、水平面を見いだせる力としての【技能力】が必要だと、ツクヅク納得させられながら作業をしていました。
ここでもやはり、自由に形を変えれる水の特質の可能性を感じてしまいます。

そして「技術を感じる脳」と「技能を感じる脳」は、全く違う引き出しであると観察出来ました。言い換えるならば、「技術の脳」では、想定外に対処できないと言うことです。
その対策を強引に「技術の脳」から導きだそうとすることが、「なす術がない」に陥るように感じます。【技術】だけでは、もう対処しようがないときに出る【底力】は、【技能】の引き出しからしか出てこないのではないでしょうか。
僕が教えることの根幹に置いてきたのは、「普段から何時でも必要なときに火事場の馬鹿力を抽出できること」でしたから、その引き出しの有りかが存在することを体感出来たのは、とても大きな収穫でした。
そのときは、作業がそつなく、何となく坦々とこなしているうちに、気づくと目標に到達しているのです。宮大工さんの作業において、製図は意味をあまりなさないと言うのも、ここに深い意味合いが潜んでいるように感じます。
多分製図化して、明確すぎるデイーテイルを脳にインップトしてしまうと、他の発想が閃いても、脳が【技能の意見】を引っ込めてしまうように感じるのです。
目標ありきの活動の怖さで、目標は、本質を変えないで形は変えれる、変幻自在にしておくべきだと感じました。
まさに、お金を使うことで勝てる野球から、お金がなくても工夫して、今の常識を覆せる野球を世に示す事に重きを置く、ブラッド・ピット演じるジェネラルマネージャーは、まさにジェネラルマネージャーは【技能の人】であるべきだと感じました。
一方監督もスカウトも【技術の人】から出れない人達でした。

バランスをとろうとするとき、水の意識ならば、自由にいったり来たりしながら動き続ける中心を「観続ける」事が出来るのだとも感じ取れました。
ここでも僕は、ただ飲んで健康になってもらうということだけには喜びを感じません。
合気道開祖の植芝盛平先生が仰るように、水の動きこそを取り組む事で、マクド型の思考を転換できると信じたいのです。
その為には、単なる商品では、其処が抜け落ちるからこそ、機械化を極力しないで、身体性という技能を使って汲み上げることが見えない力としての想像力が、水に付加されて意味合いが増すのだと信じています。
だからこそ【技術】としての物語ではなく、【技能】としての物語が必要だと思うのです。
まさに技術に行き着く凄さをノンフィクションで描いていたNHKの番組は、技術を繋ぐ技能にこそ、もっと主軸を合わせるべきだったのではないでしょうか。

僕のワークもドンドン其処に移り変わり出しています。
そして此処に、足を運んで来ていただきたいのも、此処で提供する、ゲストハウスの景観や山との景観とのバランスが、水を知る為の伏流水のお風呂等が、【技能の脳】という引き出しを開く絶好の体感に繋がるからなのです。

僕は、ブラッド・ピット演じるGMのセリフ「記録なんて直ぐにフアンは、忘れ去ってしまう。自分がやりたいことは、今のお金を投入すれば勝利を作れるその常識を覆すことで、生き方の方向性を変えれる夢をフアンに与えたいのだ」という、グローバル資本主義というマクド型常識に対する果敢なチャレンジをし続ける姿に、感動をおぼえました。

今日も僕は、この修羅場にいよいよ入る日本で、その為に様々な意味合いでの打開策に繋がる伏流水の活動をレールに乗せて走らせるために、今はまだ短いレールを引き、走らせては、立ち往生しているこの【場数】を、体験する場を通過し続ける事で、ヒントとタフさを得ることに繋がるであろう、脳の引き出しの開発になくてはならない、百姓大工土木仕事に精を出したいと思っています。
それがきっとどうにか、この閉塞感がある世界を変えて見せたいに繋がると信じているのです。
機関車の運転手の自分と、まだ僅かではあるけれども、その機関車に乗ってくれている、賛同者と会員という乗客がいるのだから。
映画「レールウェイズ」で三浦友和が言うセリフ「迷ったときは、後ろを振り返ろ。其処には運転手の君に命を預けている、乗客がいるのが解るから」この気持ちで、今はこの赤字鉄道を走らせています。
生まれ故郷の北海道では、国鉄が民営化され、生活に根差した移動手段が根こそぎ解体させられました。
陸の孤島になっている場所が山ほどあります。
これもグローバル資本主義の結果、効率と儲けだけを優先した事で起きたのです。
命に育むこの国の貴重な財産である、伏流水だけは何としても守らなくてはならないと信じているのです。
賛同者のかたは是非とも飲んで体感していただき、世界を変えようとしているこの活動に一票を投じて下さい。


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