あらえびすブログ

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舞 23 土壇場で出きることは、違う脳の引き出しを開く鍵をきっと持っている自分を信じること?

例えば映画をみたり、小説を読んだりして感じること。
此処を今自分は疑い始めているのです。
覚めていると言うような事ではなくて、多分慣れ親しんだ、自分の脳の引き出しを一回クローズして、他の捉え方が出来る引き出しをどうにか開けて、其処に情報をおいてみるという事です。

とは言うものの残念ながら、なかなか慣れ親しんだ脳が直ぐに情報を捉えて、お喋りをはじめやすいものです。
これがきっと限界に立たされた時に、俯瞰して自分を捨て去ったときに、潜在能力が開花するということに繋がると、感じはじめました。
まるで、あえて食いつきやすい魚には餌を食わせないで、滅多に針を突っつかない他の魚を釣るような事なのでしょうか?

バカな自分は、この伏流水のインフラという困難な活動をあえて選んで、踏み込みました。
そしてそれは、身体を通して知ったことをどうにか現実の社会で実践して、結果を出してみることでした。
言い方を変えれば、自分の限界とは、自分の慣れ親しんで使ってきた脳の限界であって、決してタシャのせいではないと言う事を証明したいという、願望なのだと感じます。
例えば科学者が閃きに限界を感じて、気分転換に散歩しているとき、閃く事があるんだ!と言うような事をよく例えで耳にします。
このとき散歩している脳が科学研究という餌に何故か食いついた、故に違う視点から打開策が閃いたのでしょうか。
今自分は、全くその項目においては開いたこともない脳の他の引き出しで、自分の全てをとらえ直して見ようとしています。
年取ると頭が固くなるとよく言いますが、成功例と失敗例のがんじがらめの解釈に、自分が縛られているだけなのではないかと思うのです。
自分のパターンに自分が捕らわれている状況なのではないかと。

【二度生まれの時代】においてまさに必要なのは、きっと新しい脳の引き出しを明け続けることだと思うのです。
昨日見た「レールウェイズ」は、まさに仕事一徹で生きてきた自分が、まさに違う価値感も持つ自分で、あえて同じステージ生きる内容でした。

きっとステージを変えていると、自分が変わったような気がしてしまう罠があると感じます。
僕が目指す伏流水のインフラという活動の為の都市部への依存からの脱却は、自分の進歩だと思ってステージをコロコロ変えてきたであろう自分への原点回帰だったと感じます。
コロコロ変えなくてすむ絶対的なベースになる生きる場を、求めて来たような気がしています。
其処にたどり着いた自分は今度、自分が使ってきた引き出しの限界に直面しだしています。
この伏流水のインフラという活動が、もしも無事起動にのった時は、自分が新たな引き出しを開けれたという事だと思っています。
今いよいよ背水の陣で自分は、この新しい引き出しを開けようとしています。
海の物とも山の物とも見分けがつかない危うい活動を、どうか他人事のように俯瞰して見ていて下さい。
その為にも科学者が散歩するように、慣れない大工仕事や土木仕事に今日も向かわされている気がしています。
僕がこの廃屋の改築で、冬支度を通して得ているのは、きっと違う引き出しを開けるためだと思えます。
出来上がった内容を見て、素人は誉めてはくれますが、たかだか所詮素人仕事です。
だからそのようなことに全くもって、満足は出来ていません。
ましてや自慢の種にもなりません。
ただただ、自分の新しい脳の引き出しを開けるが為の、幼稚な作業です。
そして沢山の人達に自然に迷惑をかけながら生きてきた自分が、唯一違う価値感を知った自分で、あえてこの十五年前から目指してきた生き方のステージを生き抜く事がとても重要なのだと思うのです。
トンネルに入ってまだまだ一年半。
大好きなノンフィクションで南極から全員生還した「エンデユランス号の漂流」は四年の修羅場、映画「ショウシャンクの空」は二十年にも及ぶ修羅場。
まだまだ僕など毛のはえた若造です。
けれども、道が見えて歩けてきた時代に生まれた弱さが、染み付いています。
だからこの限界集落での生活、そして山にケイトラで通い続けて原始的な手作業で伏流水を汲み上げ配る活動は、僕にとって細やかではあるけれども、この弱体者で五十にもなってしまった若造をもっともっと強くさせてくれる、大切な大切な修行の場であるのです。

どうか共に、くだらない登場人物の僕が主演の三流映画において、どうにか違う引き出しを開けれることを期待して下さいませ。
開けれた小さな扉はこのblogで逐一報告して、軌跡を記していきたいと思っています。



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