あらえびすブログ

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舞 15  舞うのは、誰のため?

サッカーでよく股関節を痛めると言います。
あれだけ他者という存在にたいして、切り返しが早く、そこから生まれる突破口を見つけて得点を導き出すのですから、股関節が変化に態様出来なくなるのがわかります。
しかし脳として捉えてみると、他者による状況変化にたいして、身体という自分をコントロールするスピードが遅かったといえます。
骨盤が、どのようにも変化できる位置からズレてしまったのです。

骨盤の調整は尾骨と仙骨、腸骨の拮抗で作ることは、以前書きました。
その拮抗による、バランスのよい細かいインナーマッスルの柔軟性を保つことで、【肺】という肋骨内部でのバザール感覚で捉える、他者の動きに対して反応をしても、【腰】がついてくるのです。
他者の動きを【肚】が出来ていないにも拘らず、その不完全な【腹】で捉えているうちは、不安や怒りを作る【動物脳】からは脱却できません。
その動物脳を冷静に引きおろす感覚で、尾骨のある部分を下げ、その事で注意深さが生まれ、そこから仙骨を引き上げる事で、冷静さがある自我を前向きな感情に使おうとしていけます。
その下げた尾骨と引き上げた仙骨のあいだに【間】が生まれます。
腸骨の大腿直筋の付け根の腸骨稜を左右引き上げる事で、【肺】のバザールでの他者の作り出す情報を、自分のものとして捉えても、引っ張られない余裕が生まれます。

聞き分けのない犬は、動物脳が優先してしまって、丸出しの欲求が出て、冷静さを失っているのです。例えば「散歩に行くんだ」「ご飯かおやつ、貰えるんだ」と決定項に情報をダイレクトにおとしこんだのです。「もしかして」という【間】が持てなくなっているのです。
野生のサルなら絶対にリーダーにはなれません。
しかし今このような人間が以上に増えています。
人間の場合もうひとつ、都合の悪そうな情報は絶対に【肚】に入れない軸をずらす所作も作り出します。こうなると経験則以外の修羅場では、対処出来なくなってしまうのです。
この二通りの所作は、未練を残します。
一層次への対処が遅れて、土坪にはまります。
これはタシャの情報に溢れる環境から、凄い影響を受けています。
ですからシュタイナー教育では、未熟なうちは情報の鎖国化を実践させるのです。
【腹から肚】への教育です。
土壌は、時期が来ないものに芽を出させません。
何故なら芽を出し、繋ぐことが目的だからです。
其は種も含めた、自然界が状況を見て総合的な判断を下します。
昨日書いたマクロの考え方です。

そこが農学の面白さです。
未熟なら、本見てその通りに芽が出ないと、そこから思考を発展させようとしない。
逆に言えば、余りにもその通りに芽が出ることにも違和感を持ちません。
此れが化学肥料と農薬のもうひとつの怖さです。
僕らの学習能力を奪うのです。
耕すのも同じです。
曲がりくねった人参、大根は、自らの生命力の強さで障害物をすり抜けて成長した証です。
荒波を越えた魚が旨いのは、生命力の強さです。
ということは、真っ直ぐな梱包しやすい、調理しやすい野菜は、障害物に弱い人間を作り出します。これは前にも言いましたが、大工における【木使い】も同じことです。
近隣の山を見て、東側で育った木は東側の柱にします。
だから建築材をグローバル化するということは、そのまま生命力のない家を作る事になるのです。ましてや角材に加工してしまったら、その木がどちらに曲がり捻られやすいかもわからなくなります。
そうして子供にも障害物がない、耕したフカフカすぎる土壌を与えることが、親の役割と勘違いしていきます。その方が育てやすいからです。子育ての手抜きです。
曲がった梁を使えるから、生命力のある家になる、宮大工の学問です。
そして今、まっがって育った方が生命力のある人材なのに、その曲がって育った人材を使えないリーダーばかりです。

【腹】は一方通行の概念です。
消化するのみ。自分のためだけに化けるのです。
しかし【肚】は、マクロ的に様々な生命力を生み出す土壌です。
今こそ身体知を通した「マクロ人間学講座」が必要です。
僕は自らのワークをそのように位置付けはじめています。
其処を活性化して【命の力】を引き出すのがフルボ酸鉄なのです。
食べたぶん何がお返しとして投資出来るかを問われる【場】なのです。

此れをもう一度社会に戻してみると、「沈黙の螺旋」という思考が生まれる所以がわかるのです。
沈黙の螺旋とは、多数決では、ひたすらに少数派の意見は、沈黙せざる終えない方向に流されて、始めは48対52でも沈黙の螺旋を繰り返すうちに、結果のみは1対99、0対100に置き換わってしまうと言うことです。
この沈黙の螺旋理論は、完璧に物理学の応用です。津波も物理現象ですから、全てを物理現象で見て認識して終わらせる【見】の学問です。
しかし【観】の学問は、沈黙の螺旋を破ったのは、「王さまは裸だ」と言った少年の言葉です。
此れは裸であるという事実を考慮の外におかずに、社会の本質が宿っていると観る学問です。
即ち、デフレの今と更なる大津波を前に今こそ強い意志でインフラを整えようとするようなことです。此れが伏流水の活動で僕なりに、先ずは緊急時の水のインフラを、そして間に合うのなら、避難場を都市部の為に整えておこうとする活動です。
後は準備出来たら、やっと踊って待つのみです。
今の躍りは何も手たてを加えずに、踊っているだけです。

国土計画の藤井さんのお言葉を借りるならば、つまりシステムを一面において物理現象とも、とらえつつも、そのシステムが人間の意志の力でもってさながら生き物のように展開していくものでもあるのというふうに、そこにある命や志というような物理的には捉えようもないものも含めて大きく深く捉える、其が【観】の学問です。
龍とは、水とはまさにその事なのではないでしょうか?




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