あらえびすブログ

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舞 9 グローバル資本主義の下敷きの舞からの脱却

今ヨーロッパでは、サイバー攻撃で水道水が停められる事故が出始めています。
此れが見えなくしている、パイプラインの怖さです。
そして其が、我々が便利と追い求めてきた、グローバル資本主義の罠です。
その流れさえ切断したら、簡単に国を乗っ取れる状況が出始めています。
此れから三年の間に起きるであろう震災時に、サイバー攻撃でパイプラインを操作されたら、理由が掴めない状況で更に復興が遅れざるおえないでしょう。
もう全てが、お膳立てされた、アイテムからの様々な用立てではなく、そこから勇気をもって出てしまい、自分で手に入れていく事をしているから始めて見える、生きる土俵の変化から聴こえる声を一歩先に知り、対処していく時期に、いよいよ入った気がします。

そういう意味では、驚異的なスピードで変化している自然界の側での情報を、集めておかないと大変な事になりそうな予感がします。
地球も飛行機と同じく、定員制です。
人間像が増えすぎたら、動植物は減る。
老人が増えすぎたら少子化になる。
当然人間がヘリだしたら動植物は増える。増えたら増えたで問題が突きつけられる。
そんな危うい乗り物に皆がのっているだけ。
乗り物は危うくはないのです。
入れ換えせいの【死】というものを感じなくなっているのです。

ワークで都市部(前にも言いましたが、地方で暮らしていてもstyleが都市部ならば安心はありません)に赴き、楢枯れのスピードの早さが余りにも早いと言っても、其が都市部の【グローバル資本主義形態依存】側で変化として認知したときには、もう詐取しあう地獄の状況のカウントダウンに入っていることに気付いてくれる方は、残念ながら殆どいないのが現状です。
現に組織は、学校法人であろうが、介護職であろうが、株式会社であろうが、その嵐の真ん中で、沈むか生き延びるかの終わりのない戦争ゲームに、居続けるしか方法がなくなっています。
けれども其は【命の死】はない、生き続ける生きるです。
成長こそがメジャーな世界です。
だから機械化していく生きるにさらされるのです。

だから地球全体としては、都市部でのスピードは、実は異常に遅いのです。
変化が早いのは流行だけ。
では、何故此れだけ流行が早いか。
シャッター街は何故おきてくるのか?
それこそが間接的に、楢枯れや熊の多発、失業、家族の不和、年金のいく末、自殺者の多さに現れて来ているだけです。
経済が下降して、組織の潰しあいが起きたら、もう既に其は、「僕らの死があってこそ生きる」に関わる余りにも大切な事が大きく動いていると言うことです。
それも死が見えない場所でじわじわと。
此れが生き地獄です。
だから潰しあう戦いに、勝利しても、次はうちの番かもと永遠の不安におののき、潰しあいゲームが更に加速します。
自分が生きるために、他の死を計算から除外している、かたわな生きるです。

ドメスティックバイオレンスも、不登校も、宇宙感覚に行き過ぎている子供たちも、その個人家庭の問題では実はなく、自然形態が影響を与える社会形態の危うさから噴き出す結果に感じます。
必ずその一つがもし解決に至っても、違う場に吹き出してきます。
グローバル資本主義の罠にはまり動き続けるしかない会社は、社員相手にドメスティックバイオレンスを遂行していると思うのです。
生理不順は既に会社が作るDVです。
僕は都市部の【グローバル資本主義形態依存型社会】に居れるのは、一週間が限界です。
狂気に入る時代に狂気を表現出来る場がないと、精神をきたし、身近な安易な事で表現しようとします。
それがサッカー熱に、よさこい祭り熱に現れています。
生きる為のアイテムです。
本当は、死に場所で踊るべきです。

【自然界依存型社会】の側では、突き付ける驚異が直接的です。
潰されることはあっても、潰すことは不可能な確固たる存在です。
だから、自然界相手にDVを起こすことは出来ません。
だから頂きながらも、これ以上頂くと自分も含める自然のバランスが危うい事がダイレクトに感覚に作用します。
だからもう一歩外に出ると此処には狂気な世界が側ににある。だからあえて狂気を表現する必要もない。
その驚異な自分の狂気に全体がやられない術を身に付けていくのみ。
そうすると自と謙虚になり、助け合って生きていくしかなくなる。

見えないパイプラインというストローで、美味しく欲しいものだけを際限なく吸い尽くす【グローバル資本主義形態依存型社会】は田舎と都市部に経済格差を作るまでは、自分達に悲劇は余り起きません。その一つの大きな現れが「原発事故」です。
けれども吸われ過ぎた自然界が、悲鳴をあげたときに、一気に被害を被るのが、【グローバル資本主義形態依存型社会】参加者です。
死が見えない場所で突然に。
だから死を準備する間がない。
生きる【場】に死がないから、こんな【場】では、死にたくないとなるのです。
病院や老人ホームという、自分の命と引き換えに残る命を感じれない。
だから【死】が怖いのです。

だから都市部にいると落ち着かないのです。
見える都市部の当たり前が、僕には危うくしか見えないのです。
ストローで地盤を保ってくれている重要な基盤を吸い付くし、今にも液状化でズレる可能性が大の【場】で、殆どの言動行動が更に如何に効率よく、ストローで吸い上げるかの話題にいまだにいることでの、違和感に落ち着かないのです。
其は生きるもの以外を見えなくするシステムです。
しかしあなたにも必ず【死】は訪れます。

其を躍りで例えるとどんな「様」でしょうか?
お金がかかるから、今年は衣装を作らないとか、新しい作曲や振り付けは依頼しないで、以前の作品を踊ろうとか、当たり前に唯、人が集まり、お金が流れるから今年も新作だとか、何れもが決める理由を【グローバル資本主義形態】にお任せしている。
目の前に、血だらけで、脚が吹き飛ばされた愛する人を前にして、【グローバル資本主義形態】
にお任せして行動を決めないはずです。
手術代金がなければ、街頭で寄付を集めてもどうにか遂行しようとする。
ならば、今我々が踊ることに必要な衣装や振り付け、作曲に、誰が寄付をするんでしょうか。
其は、死が生み出す力の違いです。
どうせ踊ることが好きなら、あなた方の為なら、是非とも此れは衣装に役立ててほしいと言われる為の、自らが自らの【死に関わる命をかけた舞】としての【死に装束】が似合う今の【己】かを、もっともっと自分は自分に突きつけて、下っていきたいと思うのです。

それだけの何時も身近に【死】を感じていたら、当たり前に一期一会しかなくなるはずです。
二度あるとは全てに思わないこと。
【舞う】と言うことが二度と出来ないかもしれないと、本当に思って踊ること。
この瞬間は、二度とないと本気で思えるから、未来の結果のために今を生きるのではなく、過去を積み上げる今を生きれると思うのです。
それが【二度生まれ】死に行く時を感じる時代の死ぬ準備の【間】としての日常です。
だから【舞】や【祭】に命をかけてますなんて言葉を発すれるはずがない。

【死】という瞬間を持ち、待ち続ける事が出来るものにしか、命をかけることは出来ない。
ならば毎日が偶然のようにどうにか生き延びられていると感じ得る【死の淵から噴き出す】命にしか、【舞】は存在していないと思うのです。
蟻とキリギリスの違いです。
キリギリスの【祭の舞】が殆どなはずです。
僕も五十年もの間キリギリスを生きました。
けれども今はやっと蟻になれました。
すみたい場所は、空気が美味しく、飲める水がそばにあって、景観が良いこの場所ではありません。
すみたい場所は、自分の【死】という自然の中での究極の自然が、何時も当たり前に側に横たわっている、この場所なのです。
普段から死に水として選んだ水がある場所、お墓から肉体を持たない自分がこんな過去を生きて来たことが、変わらぬ場所。
山は何時も変わりません。
楢枯れが起きても、自然の摂理で大きく生まれ変わる偉大な力を秘めています。
けれども地球の一員の人間が、一人も自然界に認めてもらえなく、共存出来なかったという景色はあの世からみたい景色ではないのです。
ましてや、コンビニや新宿、銀座、渋谷などお墓からみたい景色ではない。
ならばはじめから、死にたい場所で生きればよかったはず。
其はとても違う創造力と忍耐力と今では勇気が必要。
けれども其をなし得たときは、何時でも死を迎えれる、魂が一番輝く場に、日常から生きていれる最高の生きる【場】を手にすることが出来るのです。






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