あらえびすブログ

あらえびすのブログです。各プロジェクトや、日々のこと等情報発信。代表東出融の過去記事、Facebook発信のまとめもみることができます。

舞 7 舞う方向はどこにあるのか?

漱石核家族という言葉もない時代に、「社会で最小単位の共同体」である家庭を「社会で最小単位の修羅場」として描いています。かなりの先駆者です。
Kang-sangjungさんの「続.悩む力」に出てくるこの内容は、其々が何処かで実感されていることです。

家庭が侵食されていることが、グローバル資本主義の元に崩壊にさらされているのです。
家庭さえも侵食された今、僕らは何処に向かうべきか、何をするべきか?
そこにこそ【舞】が今後も大きく存在出来る「場」が見えてくると思います。

中世の頃は、拠り所が宗教でした。
そして僕らは科学を拠り所にしながらここまで生きてきて、一気に原発でそれへの盲信が拠り所にならないことを知りました。自然界も拠り所にはなりませんでした。驚異です。
此れは逆に人が都合よく自然界を、利用するだけ利用してきたつけです。

今登山ブームですが、修羅場に入らせていただくという認識は零に近いのではないかと思うのです。人への都合のよい慰めに自然界は、存在してはいないのです。
此れと同じことが、舞等の興味の対象にも起きています。

sangjungさんは言います。「私たちの世界に存在するありとあらゆるものは、全て個人の意思と個人の叡知をもって自由に作られ、それによってたつ社会がよい社会なのだと言う観念が人々の上を覆っていたのです。逆に言えば、それ以前は、個人は自由ではなかった。最大の違いは、神との関係で、かつては、人は神と結ばれ神を前提としてその下に、ある秩序をもって形成されている一員でした。しかし近代になると、その繋がりが切れて、個人は自由放免となり、自由な意思で生きてよいことになったのです。即ち宗教から切り離されることによって自由な個人が誕生したのです。個人が自分の考えで自由に生きられるようになったというのびのびとした素晴らしい時代だと感じていたのですがそうではなかった。自然界や神という実体を反映していると考えられた秩序に慣習的に従っていれば、よくも悪くも人生をまっとうできていたのに、近代以降の人々は自分は何者なのかとか、自分はなんのために生きているのか、といった自我にかかわることを、いちいち自分で意味付けしていかなければならなくなったからです。このような状況のなかで、人間の自意識というものが限りなく肥大していくのです。しかも、一人一人が分野の目的以外では、ぶつぶつと切り離されていて、繋がりがなく、共通の理解もない状態なのですから、実は互いに何を考えているのかわからないのです。」

漱石は、小説に探偵を登場させます。その探偵とは、「自意識が過剰になると他人の思惑が気になり、コセコセと盗視するように他人をうかがうようになる人達」として登場させます。
sangjungさんは、まさに七十年安保の頃の学生たちの多くは過剰な自分探しの現れと見ています。
そして「今僕らはロマンチックな革命を起こそうとしているのではなく、百万人の鬱病、年間三万人の自殺者、十人に一人は職がない状況、基礎年金のみの生活、まだまだ来る災害、水や食糧さえも無くなるという中で、どう生きていくかという切羽詰まった自分探しをしているのです。
此れは探偵ごっことも、自己実現ごっことも、革命ごっことも、違う本物探しです。此れはグローバル資本主義のなかで、本物イコール自分らしい唯一無二のものは、殺がれる方向に向かうしかないことがひとつの理由として考えられることです。人間は何処でも誰でも代替可能、入れ換え可能な、等質な「商品」になることを求められているのです。それに必死に抗おうとすると、自分だけの個性やオリジナリテイーを求める気持ちが強く出てこざるをえません。それが切実な本物探しの背景にあります。もうひとつは、〔本物を探せ!〕というキャッチコピーが巷に氾濫し、満ち溢れているからでしょう。本物の自分を探すのではなく、自分を忘れろと実は漱石は示しているのです。」


此れが「死の淵ギリギリから立ち上がる命の力の光」そこから立ち上がって来る【舞】と出会いたいと書いてきたことに繋がっていきます。
その身体の位置は如実に、気付かない部品の特徴として、身体に刻印されています。
それが最近ワークをやるたびに、受けられる方々がキャッチできる速度が急速に上がってきています。
そうして特に自分の中に本物探しをしなくなった、分野を意識していない自然で普通の方々のほうが理解度が増しています。
此れも僕は如実に時代が反映している現れと捉えています。
「修羅場を生き抜く直感を本気で鍛え出逢うワーク」に最近なってきました。
生き抜こうとするとき生命や安全に関わるような一大事は、科学の合理性や理知的な言葉よりも、自分自身の感情や本能といったうちなる声に耳を傾けてみよと!その為には体の声を聞く練習が現代人には、必要なのだと認識しています。
だからワークで僕は言うのです。僕の教えの仕事は、大きな天災が身に降りかかった後には必要ないよと。けれどもそこから生き返るという。人生二度の死を持っている時代を生き抜くには、今から具体的な準備が必要だと。必ず修羅場がおさまった後に、明日からどう生きるかという現実が突きつけられます。その時に生きる力を見せれる大人を、子供は待っています。
その準備の一つが伏流水の活動です。

では明日は、未来を作るのではなく、しっかりした過去を作るそんな生き方から見える【舞】に入って行きたいと思います。


Android携帯からの投稿