あらえびすブログ

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舞 2    死の淵から舞い広がりたい

映画「奇跡のシンフォニー」は、とっても好きな映画の一つです。
最近の日本映画の監督の感性にも驚きます。
スッカリ洋画はご無沙汰するようになってしまいましたが、たまにあるんですよねアタリが!
奇跡のシンフォニー」もそんな一つでした。

〔孤児院に住む主人公が草原のど真ん中で、風の音にメロディーを感じ取り指揮をするシーン〕そして彼の才能を世に示すことになる、〔教会で始めて触るピアノ、始めて見る楽譜をツールに、外でバスケットやスケボーで遊ぶ、世界に溢れる音で作曲をしてしまうところ〕が特に僕はひかれます。

「舞」というものを、あえて「舞」から離れて、探しはじめたものにとっては、羨望でしかなかったのです。
本当の自由から始まった、【音の世界】がそこに先に無限に広がっていたからです。
息子をシュタイナー学校に入れたのも、周り(社会、マスメデイア)に先にあわせて、「本当は生まれたときから、既にそこに在った自分」との人生で一番大事な出逢いを先送りしてほしくないからでした。
息子が十三歳になり、五十三歳の自分は、今やっとそのスタート地点に立っているのです。

生まれたての頃は皆、【死の淵ギリギリ】を、偶然生き延びているのでしょう。
そのとき既に、何かに誰かに合わせなくても、其のままで「人生のシンフォニーを奏でる仲間」と出逢えたことでしょう。
だけれども、「既にそこに在った自分」と出逢えていないのですから、タシャとの出逢いは、人生に沢山の嘘を積み重ねていくことになってしまいました。
情けない話ですが五十年前に、今僕は立っています。

其で解ってきたのです。
三歳のころ、世界は希望に満ちてなんかいなかったと。
どちらかというと危うい未熟な体で、本当に自分という生き物は、これから先順調に小学生にも中学生にも大人にもたどり着けるのだろうか? という【死の淵ギリギリ】を感じていたのだと思い出しはじめたのです。
その頃のチッポケな自分の方が、今よりも遥かに逞しい生命力を持っていると感じるのです。

その場所は、何も変わっていないのでしょう。
きっと死ぬまで代わりもしないのでしょう。
「三つ子の魂百までも」この言葉の解釈も今わかります。
魂的には、人は三歳で既に完成しているんだということだと思います。
後は其が活かされる「場」との出逢いに、使っていくしかないってことだと思います。

所得の多さで価値を見出だしたり、多くの社会的認知で自分を量ったり、その証として「賞」を欲しがったり、あるときは自慢の種に自分の人生や親、知人を語ったりと、その為に多くの時間を費やして来たようです。
自分が自分の「魂」をデザイン出来るものだと思っていたのでしょう。
けれども其は既にそこに在ったのです。
そしてその場所こそが「全ての中心」で【死の淵に存在する、一番命の光が輝いていられる場】であり僕の住みか何だとわかってきたのです。

続きは又!



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