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あらえびすブログ

あらえびすのブログです。各プロジェクトや、日々のこと等情報発信。代表東出融の過去記事、Facebook発信のまとめもみることができます。

腰回りで感じたものを肺に送り肺で出力し、その結果で首を座らせて思考する

では、昨日の続きを投稿します。

昨日の文章をもう一度読み返して下さい。
何故なら感じることは、日々進化していくからです。
僕が伏流水でも、このblogでも、ワークでもお届けしているものは、自然界という宇宙観への気づきによる「使命」をもち実践していく、生きる力です。
全体観による個人観の実践です。
その時に、ダイナミックに生きていると感じる本当の満足感です。
伏流水の活動も、法改正までたどり着くことさえも大変です。
その為に一万人の心を動かすことも大変です。
殆ど一般的に無理だと思える事の日々の連続です。
躍り等の個人観の目的の為に行き着いた身体操作法で、五次元感覚を三次元感覚の自らの体に置き換えることは、ほぼ完成形に至りました。

けれどもそれだけでは、自分は世界観で終わってしまう。
踊ることで、ご病気の方を歩けるようにお手伝いしたことで、本当に広葉樹が増えるわけではない。広葉樹が増えないということは、動植物全ての命に重要なフルボ酸鉄をいっぱいにした地球に向かって、歩んでいるとは言い難いと思ってしまうのです。
そこまで考えなくて良いのかも知れないと、いつも葛藤がありました。
けれどもどうしても腑に落ちなかったのです。
此れで腑に落ちれないのなら、どうして重心はここですと他者に指導できるのかと、自分の身体で掴んだ事への疑問が湧き始めるのです。
そして其を知りたいと、その中心に近付くと自然に自然界に意識が移って行きました。
腑に落ちなければ、自然体など体感できるはずがない。

気付かないけれども、この地球という自然界に住まわせて頂きながら、不自然界を不自然体で生きている自分が許せなくなっていきました。
そうしているうちに世界観は肚の前後の奥行きが浅い所で感じ取っている。
昨日のblogでの、「いいね」はまだ腰椎の一番ですから、情報を上下の深さが浅い所で感じていますが、ギリギリ肚ではあるのでまだ嘘ではない。
けれども「まあ いいんじゃない」は、胸椎の十一番十二番での情報収集なので、本音は興味が
ないという身体の表現です。

ですからネットでの限界は「いいね」とクリックするだけまでしかたどり着けない、今の現状です。身体だと腰椎の一番までしか、肚を知らない。
ネットが悪いのではなく、「いいね」のクリックしかないことに違和感を持てない、現在の人類の限界です。
「病気がなおったよ」
「いいね」
「夢抱いて、大風呂敷広げて借金こさえたよ。だからそろそろ大人になって、夢などみないで現実を生きるよ」
「気づいて良かったじゃない(いいね)。貴方は一生気づかない馬鹿者だと思っていた。」
例えば病気になり、苦しみ、悩み、自分の中にある弱さに向き合い、けれどそこからこの与えた人生最後まで、結果に縛られずに生き抜きたいと思える自然体の自分と出逢ったからこそ、死を逆に意識でき、何が目の前に立ちはだかろうが、生き抜きたいというダイナミックな自然界の力が作用して、結果病気が一度期限つきで(死という期限)身を引いてくれたと思うのです。

何日か前に、社会学のFIELD調査の為に京大の学生が、一番自分が不向きな大衆演劇の世界に入り込み、そこから自分の片寄った世界観での立ち位置を発見していく記事をベースに投稿しましたが、そこでの彼の変わりようは、、まさに自分が自分を限定していたという気付きでした。
これも何日か前に投稿しましたが、養老孟司さんが仰るように、「米を食って生きている。ということは米は自分そのものだし、其を作る田んぼも自分。今の教育や社会の成り立ちでは、このように思考が捉えられない。だから自分探しなどという罠にはまってしまうのだ。」これも一番適当な位置に自分を立たせている結果です。

その中途半端な入力と出力である、肚と肺の中間点が胸椎の十一番十二番になります。
このとき、胃が弱ります。
せいぜい肚に下げても腰椎の一番二番。
だから腰痛もおきます。
恨むとかのマイナス思考は、腑に落ちていないから起こる結果です。
常に自分と他者の間で行ったり来たりの繰り返し。
此れでは生き抜きたいと言うダイナミックな力は、出てきません。
僕は踊ることでは出てきませんでした。
其は読書が好きと、取り合えず何でも読むに近いのです。
立花隆さんが仰られていた言葉を、今思い出しました。
「ネットが良いとか悪いとかではなく、自分が深い言葉を知らなければ、検索するものも浅いものにしかたどり着けない。だからネットを使いこなすには、言葉を知らなくてはならない。」
そして僕はこの言葉とは、前後の深さと上下の深さが一致しないとたどり着けない「肚」の位置です。
即ち仙骨の一番奥深い、骨ギリギリに近い腹の位置です。
ここが「肚です」

漢字で月へんは、月のサイクルで動く自然体を示しています。
そのベースが「肚」ならば、月へんに市と書く「肺」は何を表しているのでしょうか?
「市」とは、原始社会で人が集まる場所を指しています。
つまり祭りや物品交換、お葬式、結婚など全ての用途に開放された「アジール」な広場です。
以前のblogでヨーロッパの町並みの中心は円形の広場、ロータリーにして、中心に噴水と池があることを説明しました。
これはそのまま自然界の様相を、都市の中心に表現したものです。
伏流水を中心におき、そのように限りなく湧き出る自然界の恩恵の場に人々が分け隔てなく集い、分野の拘束に縛られない催し物をしていました。
これが「市」です。

自然体の土(様々なものを産み出す大地の【場】 肚)と自然体の市場(分野の垣根を取り払いタシャと繋がる【場】 肺)の其々の中心を一致させると、頸椎が伸びるのです。
では今の市場経済は、アジールでしょうか?程遠いのが現状です。
だから自分の中心と繋がれない。
だから首が立たない、座らない。
アカチャンが首が座るとき、肚と肺の中心が一致したときです。
このときは考えるときではありません。
行動するときです。

その理由はもうひとつあります。
「肚」の位置を学習して来なかったことです。
場所は仙骨の、前後においても上下においても一番深い場所です。
ここを真剣に一日様々な時に意識して、その【場】を発見し、揺るぎないものにしましょう。
仕事中、お昼休み、余暇を過ごしているとき、ご飯を食べているとき、嫌なことを感じたとき(感じたらずれているはず)映画を見ているとき様々な時に実践しましょう。
そうして噴水の中心に串を射すのです。
その時首は座り、脳の中心に串がたどり着いて行くのです。
これが「軸」です。
「軸」は、このように各セクションの特質をしり、実践で身に付けなくては、理解できないのです。ただ線を意識してもそこには、種が成長する「場」としての土がなかったり、社会という「市」がないのです。
ではこの続きは又明日に。
今日一日実践したデータを持って明日のblogを読んで下さい。
このblogは、読むだけで、直接ワークを受けられたことがない方にも伝えられるのではないかと言う、僕のネットでのチャレンジです。

せめて、「いいね」から「なんかよくわからないのだけれども、シックリきました」クリックボタンをつくりたいものです。




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