あらえびすブログ

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水の動きからの八力の合固静引を感じる

【八力の合わせる、固まる、引きよせる、静まるを同時に水として感じる】

水を固めるには冷して凍らす、水を田畑に引くには集めて流す、絵の具が溶けている水を合わせるにはかき混ぜる、水の動きを静めるには直下にゆっくりと浸透させると、先ずこのように感じ取ってみます。

体の使い方を自然界の、水の動きから学ぶ時に、全体思考にスイッチを切り替える大切さを訴えてきました。
動く前に身体全てを糸ミミズ位の細さの触覚的感覚に、全身を変換させなくてはなりません。

全体思考で、腕の使い方のみを説明することは、不可能です。
全体思考で、足の使い方のみを説明することもやはり不可能です。
その為には日頃から、日常を分断化せずに見定める必要があります。

例えば昨日のblogで、再度投稿した、水道水の考察を例にとって考えてみましょう。
水道水は、主にダムや人工池に水を貯めて、流します。
では、ダムの中で水が動いているのでしょうか。
水道水の考察でご紹介しました方は、素晴らしいプロフェッショナルです。
ですから如何に自然界に学び、其れを貯水槽で如何に活かすかを実践された方ですが、元々高校の教師をされていたのですが、生徒を相手に、如何に人の感覚に誤差があるのかという実験ばかりをして、教科書に書いてあることは殆ど触れずに進む授業をなさっていたそうです。
あまりに独創的で、校長先生からクレームが出たそうです。しかしこの方は素晴らしく、人体の感覚が見た目とここまで違うと言う事の不思議さを、生徒が気付くのなら、殆どの科学の解き方を身に付けたのだと仰るのです。
ですから、水道水に命をかけられた方も、自然界に学んでいたのです。
当然、学ばれない方が相当数の業界(分野による世界観でしか見れない人達)では、異端児です。
ダム内部で実際撹拌することで、味覚をあげられた実績が沢山あるのですが、浸透は、有り得ない状況です。
此れから浸透も出来るダムが出来るのかも知れませんが、多分ただ山間を塞き止めてつくる形状では無理でしょう。
それならば、冬季灌水の棚田を通して一番したから湧き水が出るようなシステムが可能ならば、合わせて、固めて(束ねて)、引いて、静める全てがこの中で成り立っています。
ではこのように技をかける事が可能ならば、相手の闘争心は静まってしまいます。

少しずれますが
例えば、山が少ない四国の香川県
あそこに農業用の池をたくさん作ったのは、空海です。
空海の思想の根拠を創る体感を、想像してみたいと思います。
植芝盛平合気道開祖同様に、空海も、お坊さんであるよりも先に、優秀な土建親方の顔が、実はとっても重要な彼の思考を生み出したのだと感じてしまうのです。
単純に、お坊さんとして心のありようを見つめられ、農業用水確保に困難を強いられている香川県で、単純に民衆の為に働いたのとは、大きく違う根底思考があり、其が後に空海の思想に繋がっていったのだと僕には思えます。

植芝盛平合気道開祖も以前書きましたように、開拓で北海道の原野に入植して、自然界相手に、人間が生きれる環境を構築する間に、自然界を利用しながら、その猛威を静め、自然界の猛威さえも溶かして我ら人の営みに合わせ、そのような中から武術技法の成り立ちを、開花されて行かれたのではないでしょうか。
躍りのテクニック、武術の技の冴え等の前に、「自然界への技」の匠としての姿が、僕には一番気がかりに感じてならないのです。

空海が残された「入我我入」。
仏の中に我が入る、その瞬間我の中にも仏が入る。
これこそ、合気と同じ関係です。
入り身で説明させて頂いたblogを、もう一度読んで見てください。
その時に何本もの縦糸が左右から交差して、片側の糸が横糸に替わり、一つの織物に仕上がる状態を説明しました。
此を、仏という対象物で捉えられた感覚から生まれた言葉が「入我我入」なのではないでしょうか。

言霊についてもblogで書きましたが、言霊は、生の自然界での本物の体感から生まれでた言葉です。本当に究極の体感そのものから溢れでる思想でなければ、生きた言葉にはならないと思うのです。
其がアニミズムです。宮沢賢治アニミズムだと思います。

昨今、あまりにも安易に言霊とか、賢治の世界(彼は宇宙観だと認識しています)とか、宇宙レベルでものを捉える時代とか、精神的に次元を高めてとか、使いすぎているように感じるのです。
五次元の宇宙観が三次元にどのように表現されているのかを見定めたとき、出てくると言葉が言霊ではないでしょうか。
三次元の先にあるのが五次元ではなく、五次元に含まれている三次元なのです。
次元が増えるほどに一霊に限りなく近付いて行きます。

一霊四魂の一霊から、即ち宇宙観から生まれでる四つの心が織り成す言葉。
宇宙ではありません。宇宙観です。
その宇宙観を、見事に、素直に表現しているのが自然界です。
ですからこぞって山籠りをしたのです。
アニミズムには、山岳信仰が必要だったのです。

では仏とは?
自分という呪縛をほどく(仏)そしてそのお姿で行動する人。

このように自分は認識しています。

自分は呪縛をほどく為に、大いなる自然界の前で、暮らすことを選択しました。
あまりにも巨大な力を持っているために、ひれ伏しながらも寄り添い、その巨大な力の恩恵で行動する事が生きることと帰着して、今を生きています。

僕は躍りをしたり、振り付けをしたり、身体との関わり方をお伝えしたり、今では伏流水を広めたりしていますがその道のりは、自然界の巨大な力にひれ伏す過程でした。
ひれ伏すうちに同化していきました。
気付いたら、水そのもでしかない自分がいたのです。
伏流水を広げているのは、僕ではなく、僕の中を巡る伏流水なのです。
だから、伏流水の出場所には祠や石像があり、観音水とか、不動水とか、命名されています。
僕が汲んでお届けしているお水もメインが御所山不動水、補足が黒伏観音水と御所山観音水です。

観音は観世音菩薩ですが、千差万別な人々の苦に千にも万にも形を変えて救済するお姿のことです。即ち龍神さま、水の神です。
当然千にも万にも形を変えるのですから、自分など感じる暇がない。
五次元の中の三次元ですから、千にも万にも形を変える中の一つが、身体との関わり方をお伝えする姿であったり、振り付けをする姿であったり、水を汲みに行く姿であったりしているのです。其処の何れもが水でなくては一霊になりません。

けれども縦糸までは、体感可能です。
しかし糸ミミズが自分から動くと自我になります。
ですから糸ミミズほどの細さの海草が、水で動かされる映像を思い浮かべ、この水で、外からの動きに(情報に)揺らぐように動きを自分内部から導き出せたときに、もう水が私になると捉えています。
此れはワークの第2段階での、舞の稽古において実践して頂きますが、そうそう出来ることではないことに気付いていかれます。
自分では水だったはずのに、気づくとすぐに海草側に自分がいるのです。
如何に固定されたものに、簡単に思考が移されてしまうかを実感出来ます。
この訓練は、十月から徐々にワーク内の中心をしめていきます。
あるときふっと水から海草を見続けている目が、自分の中にハッキリと揺るぎなく不動明王のように鎮座していると感じれる時が訪れます。
こうなると、悩みは零化します。
悩みや不安がなくなったのではなく、悩みや不安をつくる目線が、流れそのものに移行したのです。その為に自分は伏流水を取り入れ、来年造る伏流水露天風呂もそのワークの為の重要な体感ツールなのです。
例えば、僕が大好きな、蔵王大露天風呂は、川のなかが温泉です。
そこではまだまだ一瞬ですが、お湯と自分の区別がなくなる時が出始めています。
ある意味恐怖にかられますが、同時に快感であるのです。

この体感が現れてから、お湯に入る意味合いが変化し始めました。
水という自分が自分なのに他者に感じる身体を引き寄せ、合わさり固まり一体になって、静まる境地に到達するワークに変化したのです。
今日も午後から蔵王大露天風呂水のワークに出かけます。明日はその結果をお伝え致します。
もう心体ワークではなくなってきました。
水そのものになる為のワークです。
ワーク命名はまだまだ先でしょうが、バレエスタジオを人体構造科学研究所に変えて、そのあとボデイーワーク工房に変えて、次にボデイー&マインドワーク工房に変えてきたものが、いよいよ一霊からの名前に変換されるときが来たようです。







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