あらえびすブログ

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諸行無常

 諸行無常仏教が行き着いた、宇宙観。
科学も行き着く先は、諸行無常の宇宙観。
自然界はまさに諸行無常である。
我々人間だけが諸行無常の摂理から、かけ離れた世界を必死になって死守している。

昨日NHKで東北震災の結果を映像でデータ化して、此れから起きると予測されている場に当てはめて、其を頼りに、自分の暮らしている場所には、実際どのような被害が起きるのかをシュミュレーションしている、高知の南国市でそのような活動をされている方々が取り上げられていた。

形状から予測されている十五メートルの津波が来た場合、仙台空港と同じ事が起きるのかを検証なさっていた。
今までのそのような特集で、同じ事が繰り返されないために、昔から言い伝えられてきた以上の供えが必要であるとの言い回しをキャスターがするのを聞いたのは、始めてである。
学び備える力が欠落していると言っていた。

その震災で自分が生き残ろうが、死のうが其が問題ではない。
昨日書いた内容では、自然界の生きるための見えないシステムを投稿した。
枯れ葉は木の一部としては、死んだけれども確実に誰かの餌になり、そうして糞を通して、次の生命に生きるためのエネルギーに、己を変革して差し出すことで見事に循環している。

では、我々は、何を差し出すべきか?
其を理解できて、差し出すなかに己の生きるが存在することが、日常で当たり前になったとき、きっと何とも言えない安心感と幸福感に包まれることであろう。

自分は世界観のなかで、必死に生きてきた。
けれども何かある違和感を解明するうちに、世界観から宇宙観に近づいて行った。
生まれてから暫くは宇宙観で、シンプルに生きている。
けれども大人に近づきながら、世界観に入っていく。
その意味では、サンドイッチのように、下のパンの宇宙観から具である世界観を抜けて、上にある宇宙観に到達した。
けれどもその先に抜けていくと思いきや、見事にUターンが始まった。
此れは予期していなかった事である。

その時にフッと感じたのが、五木寛之さんの「下山するという生き方のすすめ」であった。
きっと此れが、息子たちが受けている、オルタナテイブな教育にある、一日を逆に辿る思考を身に付けるという実践だと感じた。
けれども同じ道の景色ではない。
目指す先は判るのだが、その道筋が定まらないのである。
あまりに登頂を目指す間に分断した様々な世界観が、目の前に広がっていた。
その分断先に、支流を作り、伏流水を広げるのは容易な事ではない。
専門分野になるほどに、全体性からかけ離れているからだ。
其処に所属する方々に、全体性に必要な事を気付いて頂き、事が起きる前に準備していくことを現実化することは、本当に至難の技である。
植芝盛平合気道開祖の一霊四魂は、自分の中では理解して実践できはじめていると、感じる。
八力をつくる三元も身体では掴んだのだが、此れがまだ自然界の中では見えないのである。
台風の動きにヒントがあるのは、わかっているのだが、螺旋も理解できているのだが、風のおこしかたが解らないのである。
風の便りを出す風の郵便局が見つけられないのである。

人体が海で、僕らも森が創るシステムで生まれるフルボ酸鉄を取り入れないと、どの思考もどの動きも完璧には作動しないと、書いてきた。
完璧とは、自然界の法則の軸上に生き方を変えて、得られるのだから、自分などなすすべもないものに、乗っかって命を預けるようなものである。
海から這い上がり、肺を持ち、山頂を目指した進化の過程で僕らは大脳を肥大させ、その叡智を獲得していった。
今度は海に戻る時期に入ったのだと、思う。

其処で大脳は戸惑う。
大脳はドーナツ型で、その空洞部分にテーマをおいて、あーでもない、こーでもないと思考する。
だから立ちいちの違いから、原発稼働か再稼働かで何時までもらちがあかない、堂々巡りを繰り返す。

山頂から見える景色は、見事に様々な道に支流を作り、様々な場所から海に注ぎ込まれる図柄だ。
思春期にある不安は、社会通念の登頂を目指す苦しみだった。
そしてその通念には登頂がないことを、人類は経験しはじめた。
下山を決心しても、どの支流を通るのか、始めての違う思考が必要になる。
重力思考が必要な時代だ。
無意識化を通して、広がる力だ。



僕は今その過程を歩きながら、本当に戸惑っている毎日です。
そして其がそのまま思考性から身体性への移行です。
だから自然界の仕組みから学ぶしかないと、ここで暮らすのです。
そうして下って行った先も、新たな価値観での豊かさがあると信じたとき、伏流水と言う壮大な仕組みと出逢ったのです。
其が海にイオン鉄を流せれば、海と同じな身体性の時代に栄養分を供給出来るはずなのです。
特に必要なのは、新しく使わなくてはならない、間脳、小脳という身体の運動を促進する場への、栄養素の供給です。
其が見事にフルボ酸鉄で確信を得たのですが、その流れを加速させる装置が、しっくり来ていないのです。
風の郵便局が見えないのです。
自然界の意味合いでは重力がつくる無意識中心と、世界観を渡り歩く風の便りの関係、そしてSPEEDだという所まではたどり着いているのです。
即ち台風です。
きっと此れが判ると、マスメデイアの新しい方向も解ってくると感じています。
動物は全て風の便りで生きているのではないでしょうか。
けれども、今僕が解明しようとしている、重力は、脳も含めた身体性での重力の意味合いです。
移動可能な重力の在り方です。
本当に危機が迫り、無我夢中でで駆け出そうとしたときに、重力が軸を貫通します。
そして生きようとする、細胞レベルの意志が方向性を見いだし駆け出すのではないでしょうか?
そして自然界の変化の危機が感覚として、細胞レベルに到達して、速度を増すのではないかと思います。
風を掴まえる手だてを身に付けなくてはならない  此れが僕の残り八月の僅かな日数での課題です。
宮崎駿先生は、ヤッパリ素晴らしいですね。
遥か前に風の谷のナウシカを世に出したのですから。そしてフカイこそがフルボ酸鉄を含んだ伏流水なのではないでしょうか。
放射能さえも除去するシステムを有するフカイ。
そうして其に気付かせるオームが野性動物ではないでしょうか。
僕らも北極熊と同じ位置に立たされている。
自然に添って、空気を吸い、水をのみ、食べて生命維持をしていく根本では、立ち位置に違いは生まれません。
けれども安易に供給されて、出場所が見えないことに問題があります。

その意味ではNHKでさえも、危機感を持つことが大事だといい始めた最近の急激な変化に、僕は驚くのです。
いつも危機感を煽って実行しようとしていると、家族にも避難されてきましたから。
確かに未熟で焦りがあった事がそう見せたのは確かでしょう。
けれども今は、自分でも不思議で危機感があるのに、妙に冷静沈着で、落ち着いているのです。
所謂身体的に軸が上から貫通したのでしょう。
重力の取り入れ方を身体性でつかみ始めたのでしょうか。
だと良いのですが。
だからこそSPEEDにのれると感じています。
そのSPEEDにのってもずれない軸でどうにか風を掴まえて風に乗りたい。
どうにか風に乗って、健全な思考と身体を生み出すシステムである森、そこから生まれる伏流水、それで作ってくれる食だけは、日本中に残して行きたいと思っています。

温暖化が更に進み海面を持ち上げようが、太陽のエネルギーが縮小して小氷河期に入り、宇宙線と呼ばれる放射線が、未体験の現象を僕らに突きつけようが、言えることは変化とともに生きていくことしかないと言う事です。
僕の予測では小氷河期(小という概念が、大氷河期という地球上が恐ろしいほど冷える時期に対しての位置付けだから、人類体験では、相当な困難と認識しても損はないと思う)では、雲が増えて、過去のデータでは、火山が相当数噴火してきた、故に冷え込むのです。
太陽が届かない日常が来ると、今から構えても心配しすぎではないのです。
温暖化への蓄積は、大分あると思うのですが、氷河期に向けての蓄積は殆どないのです。
北の生き方の知恵を身に付ける事は、僕は急務だと思っています。
まさか簡単に鉄骨ほど、雪の重みで崩れる実感は皆無でしょうから。
そうして鉄骨は前情報がなく、ある耐性を越えたときに一気に崩れます。
そして台風と違うのは一過性ではないことです。
もう既に雪の準備が山形では、ボチボチ始めています。
約五ヶ月半の重みに耐えるように、そのときの稼働面積の狭さでの、生活導線作りにと。
さて以前の氷河期では、飢饉で相当の死者が出てました。
僕らにはあまり、まだ知られていませんが、地震は太陽との関係で起きる事がわかっています。
そして温暖化と氷河期の狭間では、冬はより寒く、夏はより暑い時期が来るのだと、僕は認識しています。

僕の登山時代に支えてくれた都市を、災害後に突きつけてくる、生きる方向性が見当たらない閉塞感から何としても救いだして、世界に誇れる都市に育てたいという想いは、今、重力が生み出す思考を、自分自身がSPEEDをあげてつかみ、根を通して発信していける具体例を求めながら、支流を見つけようと今日もがいているのです。
未来の東京は指輪物語ホビット村です。
亡くなられた荒川秀作先生が描かれた、都市の図式です。






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