あらえびすブログ

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水の意味合いを再確認出来た幸せ

 今日は早朝から三島クラスのためにバス移動です。明日は名古屋クラスです。

さて三島でのレッスンをお受けになっている方から昨夜頂いたメールには、とっても勇気を頂きました。

身体の使い方を本気で教えていくと、必ず、専門分野の壁が立ちはだかります。
身体と言葉の関係性がわかるほどに、どうしても専門から離れて理解して貰うしかなくなるのですが、大体其処に入っていくと、拒否されてしまいます。
身体が流れるように動くのに、流れを知らない。

此れは一昨日久々に山形に帰ってきた、復興の作業に岩手に出向いている、志が同じなM.Tとも朝型三時まで話した事に通じます。
お祭りの躍りの為に、都市部から大勢参加された時の話しになったのですが(震災よりも二年ほど前の事)彼は都市部の方を、よく川に連れていくのです。
連れていってもらった方は、自然の中に遊びに一緒に行って、バーベキュウをして接待して貰ったと思うのです。
しかし彼は日光が少ない箇所でどのように木が伸びていくのか、川の中では海と違いどれ程身体が重くなるのか、川の流れに如何に多くの種類があるのか、どの流れの場に魚が居るのかを感じ取って貰い、躍りに役立てて貰いたいと連れていくのです。
しかし誰もその意図は汲み取れません。
彼はあえて、説明もしません。
説明したら感じ取れないからです。

凄い深いところから、滑りやすい足場で、汲み上げずらいものを汲み取ったことがない人に身体の引き上げ方は解りません。残念ながら。
例えばブタの糞や牛糞を滑りやすい足場で、自分を汚さずに効率よく汲み上げる。
此のときほど引き上がっている事はありません。

今は優しくチヤホヤして教える所ほど人が集まります。
昔の芸事や武術は絶対に説明して、手取り足取り教えてくれません。
別に小難しい顔して教える必要はないのですが、言葉は気を付けなくてはなりません。
手をとか、足をとか、この筋肉をとか、この骨をと言った瞬間にもういついているはずです。
即ち思考が囚われたからです。

スコップの作業やノコギリの作業一つとっても、全てその感覚が躍りにフイードバックしてくるのです。
残念ながら躍りの練習は、スコップ作業にはフィードバックはしません。
其でもしもフィードバックする方は、普段から職人的な作業で身体を使っているからなのです。

その方々は本質の言葉を使い始めると、拒否とは言いませんが確実にその所作に言葉に、二項対立の痕跡が伺えます。

何故僕が伏流水にたどり着いたのか?
何故そこから学校教育でも、武術でも、躍りでも、痩せたいという理由にしても始めなくてはならないのかを共に感じれる方は本当に稀です。

環境を守りたいのは、観念ではなく、自然界を捉えるのは身体ですから、自然界の言葉を何処で捉えているかを発見してこそ、使う場所が解るから言うのです。
同じく其を知ってこその教育であったり、ナチュラリストであると思います。
其れはワークでも伏流水サポーターを集めることにしても、自分が二項対立から脱却するほどに溝を感じるのです。

ですから植芝盛平合気道開祖がこのような言葉を発していましたと言うメールには、ホッとさせられました。
以下のそのメールを先ずは読んで下さい。

古事記植芝盛平」という本に
「宇宙のいとなみが自己のうちにあるものを感得するのが真の武道なのであります」とあり、この「宇宙のいとなみ」である「高天原」の働きを体現するには自分自身が天の御中主の神となる必要があるとしています。
そして天の御中主は水の神で、「天の水中主(みなかぬし)の神」となるということは自らにおいて「水」の働きを導き出すということでもある。
これは禊と深い関係がある。
「水が終始自分の肉体を囲んで水とともに動くのである」
「自分が天御中主となって、一霊四魂三元八力の御姿御振舞いを完成します。これに同化して宇宙の大神様に向かって御奉公するのであります。」
…とありました。
前回のワークで先生が話してくれた事と繋がった気がして、長くなりましたが抜粋しました。

今日は其を一緒に考えてみたいのです。

[「宇宙の営みが自己の内に有るものを感得する」]
此れは宇宙とは銀河だけではないと感じます。
自然界を宇宙と先生は呼んでいると思うのです。
世界とは人間界の事を指して普段から使いますよね。
例えば自分の世界観とかです。
ならば宇宙とは人間界よりも更に広い、構成者での世界と思うのです。
生き物全てを指していらっしゃる。
勿論鉱物も空気も水も指しているのだと思います。
ならば現代的に訳すと、「自然界、全ての営みが自己の内側に存在することを感じ得れることが武道だ」と仰っているのではないでしょうか。
武道と舞の道も同じこと。
「自然界、全ての営みが自己の内側に存在することを感じ得れることが舞の道である」と

そうなると次の部分は
[「宇宙の営み」である「高天原」の働きを体現するには自分自身が天の御中主の神となる必要がある。]
此れを訳すと
「自然界の営みである高次の働き(高次とは一点を指していない事が高く広いと言う高天原をお使いになっていることで、私たちに伝えようとされている)自分自身が体現するにはその無限大の中心にいる主、即ちアシンメトリーなものを感じ取れる間脳を司る事ができる必要がある。」となると思うのです。

その次は
[そして天の御中主は水の神で、「天の水中主の神」となると言う事は自らにおいて水の働きを導きだすと言う事でもある。]
此れは解りますよね。
[先ず水の神は「竜神」です。即ち螺旋であり、形をコロコロ変えながら目的を達成する。
だから間脳を司っているのは竜の動きを創ることが出来るアシンメトリーな思考であり(シンメトリーや直線的な二項対立出はないと仰られている)自分の中に(とういうことは川ではなく地中を流れる伏流水)伏流水の働きを導きだす事でもある。]

高次の働きと伏流水の働きと示されていると言う事は、いわゆる動きと言う単純型ではなく働き、即ち役割を指していると思うのです。

[此れは禊(みそぎ)と深い関係がある]
さて身体性の大切さ言葉の大切さその体験的な把握で、体の動きをコントロールすることをblogでは常に言ってきました。そして軸は水なんだとも。
水に流せないと(人や起きた現象を水に流せないと)居着くと説明して来ましたよね。
けれども解釈を間違うと人を許すことになってしまう。
即ち発想の根本がイデオロギッシュで二項対立の思考になるのです。
そうではなく、許せなかった自分が持ち得ている、二項対立の思考の愚かさによる穢れを、祓う事ですよね。

次に先生はこう仰られている。
[水が終始自分の肉体を囲んで水と共に動くのである]
この解釈は
[自分自身の体を終始囲む水の動きに同調させて、二項対立の思考から自由になるように動くのである。]それこそが竜の動きです。

そしていよいよ先生は動くことの真髄を語られております。
[自分が天御中主となって、一霊四魂三元八力のお姿お振る舞いを完成します。これに同化して宇宙の大神さまに向かってご奉公するのであります。]
先ずは一霊四魂これは簡単に言えば心です。
一霊が高次の自分、四魂は勇ましく前に進む心、親しく交わる心、愛し育てる、物事を観察して分析して悟る心のことです。
三元は剛、柔、流で剛は骨の感覚意識、柔は臓器や筋肉の感覚意識、流は血液リンパ液など流体の感覚意識のことです。
八力は動的と静的、引と弛、凝固と融解、分と合と言う対照力のことです。
この全ての感覚を持つ体でで何時も所作を実践し其の中心を掴み、自然界における全体に尽くすことが即ち武道だと。舞だと仰られているのです。

さて何時も身体の全ての感覚で掴むものが、身体操作には不可欠であり、其れは自然界から学ぶこと以外に方法がないのであり、其処には水の感覚を身体で掴むしかないことの意味合いが多少なりともご理解頂けたでしょうか。

身体に取り込む水は本当に大切なのです。

八力は水の感覚にしか全てを網羅出来ません。

そしてその水は取り入れている水で決まります。

そして其れは自国の完全伏流水にしか出来ないのです。

三元も四魂も水の感覚のみに可能なもの。

だからこそ私は身体操作法伝授から、完全伏流水を飲める事が可能な、社会構造確立が急務だとたどり着いたのです。
しかし残念ながら今の日本で、本当に豊かに涌き出る伏流水を見つけることが非常に難しい事、
其れを汲める人以外に飲むことは残念ながら出来ないのです。
買うことは更に難しいのです。
ましてや綺麗な伏流水ほど、機械を通すことを嫌います。
だからこそ原始的な方法で汲み上げ届けようとしているのです。