あらえびすブログ

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無意識界に通じる回廊

         無意識界の地下水脈を通って辿り着けるもの  
 ミヒャエルエンデの果てしない物語に、宮沢賢治銀河鉄道の夜に呼応して身体に響く道は、観念や想念を越えて派生いしていく。

その肚という場に響いた時に、人は意識を越えて世論を越えて自らの声を信じて立ちはじめるのであろう。

まるで、「大丈夫そろそろ歩けるよ」とハイハイしている幼児に身体が伝えてくるように。

きっと其処には人知を越えた偉大なスイッチがあるのかも知れない。

スイッチというよりは導火線の方が正しい表現であろうか。

導火線は常に其処にあって、野生の思考が着火することを待ちわびている。
思考では又着火する前に戸惑う。

シュタイナー教育も頭に叩き込むことを嫌う。
其では身に付かないからである。

自転車に乗る事にしても、決して身体で覚えたものは忘れることがない。
一度着火された灯りは、一生涯忘れることなく体の記憶に刻まれる。

その為には悩み苦しみ、観念や想念を、一度無意識界に落として完全に腑に落とさなくてはならないのだろう。
其処には時間も必要だ。
待てる力が愛だと感じる。

薪を乾燥させるように、外界からある程度シャットアウトされた風通しのい「場」と「間」が。
社会が子供たちという多様性の種を比べなくなったら、この世に苛めも自殺もなくなる。

けれども大人の社会もそっくり同じに出来ている。
ただ子供たちは其れをなぞって、真似をしている。

正義に燃える苛めも中には存在している。
そうして我々は、大平洋戦争に突入していった。
日本中が正義に燃えて突っ走った。

「肚」には正義も悪も存在していない。
二項対立は臓器がある程度シンメトリーな場から、即ち肋骨から上でおきてくる感情だ。
だから恨んでも恨まれても憤りを感じる。
きっと息が詰まることを息の通りが悪い、イキドオリを感じるから派生して憤りに日本語では変換したのかも知れない。

日本はそもそもカナ文化、話し言葉の文化、女性性の文化圏なのだから。

だから薪のように無意識界に落ちるまで時間をかけて乾燥させ、着火しやすい環境で待っている子供を創る環境が急務であると思う。

無意識に落ちた観念や想念が熟成して発酵して、現実化されることを待ちわびているかのように、社会に出させてあげなくてはならないのだろう。

その子達がそのまま苛めも家庭内暴力原発も要らない世界を創るのだから。

乾燥が悪い薪は火がつきづらく、燃えても不完全燃焼を起こす。

僕らもやる気がない時は、乾燥がたりないのだ。

やることの意味を探しているうちは、体に火がつかない。

其で、強引に事を起こすから不完全燃焼して、迷路にはまる。

そうして乾燥してないときは、その焚き物の材から水分が蒸発してくるのだから浮き足だってしまう。
蒸発する水分と一緒にその材も浮いてきて自分の可能性への不信感の罠にはまる。
ひどい場合其では人生全てを終わらせてしまう。

だから僕は躍りを教えることに罪を感じた。

しつこくしつこく僕が超能力で攻撃していると訴え続けている元生徒がいる。
これは僕と言う人間が強引に教えたことでつくってしまった一つの現れである。
彼女のネット上での批判は全てが僕の責任だ。
彼女は自分でも記しているように、統一教会の二世である。
統一教会も彼女も彼女の親も悪くはない。
それに正義感で向かった自分の二項対立の思考が罪をつくりだした。
だから躍りの世界から身を引けたのも確かだ。
彼女は怒るだろうけれども、有り難うと言いたい。
そしてそろそろ本当に勿体ないから自分を生きなさいとだけお伝えしたい。

子供から楽しい躍りを取り上げ、評価され、その時代の危うい定義に立たせてしまうからだ。

今はパリオペラ座の時代です、今はイギリスロイヤルの時代ですと先に社会の要望に、無限の可能性を持つ種をあわせてしまっているのだから。

僕も同じことしてきました。
今は解剖学を知らないと通用しない。
今はコンテンポラリーも踊れないと駄目よ。

全部市場に関係した自己宣伝でしかない。
あるとき気付いてしまったのです。

きっとエコも同じ状況になってきている。
まだのれる車を手放しエコカーに乗り換えて本当にエコなのだろうかと。

僕も本当に市場に踊らされて来たと思う。

だから唯一関わっている振り付けのよさこいチームからも、振り付けへの金銭授与は提示しない。
払えないことと振り付けを贈る事を同じ土俵にあげたくないのです。

スガレン、イザナイ関係に無償でレッスン提供したのも同じ気持ちから。

その時にとても素晴らしい女性と組んで金額の高いレッスンをしたけれども、僕には不向きでした。あくまでも僕にはです。

そして僕はこの里山が好きで、ここでの自然な自分が大好きなんです。
だから株式会社あらえびすも一時期解散して今休業中になっています。

株式でないやり方が先。

その上でそうした方が応援するすべての人に何らかの利益が回ると判断したときに一部の部分を株式にして再開するかもしれません。

狩猟のように会社自体もお金をプール出来たら違ってくる。
何だろうか腐ってくるのです。確実に何かが。

だから二年後には僕の様々な方々への身体ワークもお水の会員の方には「伏流水の贈り物」としてオマケで無償提供しようと決めています。

キュウリに今の時代売れないから、イチゴになろうよって大人が説得をする。
その大人も自分だってこうしたかったけれども反対されたし、食っていけそうもないから我慢したのよ、あなたたちを食わしていくためにね。

なんて子供が言われて未来に可能性の翼を広げれるはずもない。

即ち思考の死と再生である。

思考は再生されると野性の思考になり、決して身体から離脱しない。

委ねるとは、思考の死を受