あらえびすブログ

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蔵レストラン幸徳さんの家

 東出 融  ミニエッセイ            
          築百数年の納屋とお蔵を片付けた二週間で知ったこと

古民家工房アラエビスの自力での内装がほぼ終わり、二年後に蔵レストランとプチホテル開業予定の築百数年をこす「場」の片付けに挑んだ。
ゴミの山に唖然としながらも毎日燃やし続ける様々な古材や本等の熱さと百数年の埃にまみれながら、その先人の生きる事を繋ごうとする熱さに、そして猛暑日の熱い外仕事に包まれながら、昨日どうにか終わった。
何時もそうだがそのような作業中に様々な創造のメッセージが降りてくる。
蔵レストランでは、そもそもの持ち主だった方の名前をお店の名前にしようと決めていた。
名前は「コウトクさんの家」だ。
以前からそのような業務に向けて様々な方に意見を頂いていた。
一人前のお膳で出しなさいとアドバイスを頂いていたら、何となんセットも出てきたのである。 其処には尋常小学校の教科書や素晴らしい「書」の屏風など。
外の暑さやゴミを燃やす暑さと混じって何かあったこともない其処で代々生活していた方々の風景がスライド写真で僕の心のなかにドンドン投影された。
そして子供やお年寄りや家長や奥さんが皆ニコッと笑いながら「あんたの事知らんけど 有り難うな」って呟く。
そして僕は深々と礼をしながら「皆さん、僕はこの風景を壊すことに協力して此処まで生きてきた。だけどそのたびに心の何かが壊されていく。
最初は知らないふりをしてきた。
けれどこの限界集落に暮らして二年半がすぎ、此処の根本が永久に生み出す恩恵で生きていけるって言う逞しさと優しさを心が欲しているのです。
僕は弱く小さい人間だけれども、この景色が残ることには命を駆けたから任せて下さい。」と心の中で無意識に語った。
肚で思い心で感じる時人の声は倍音で響く。
心の中で語ったにも関わらずに僕は自分が倍音で語っていることに気づいた。
よくよく感じるとこの家の先住者も皆倍音になっている。
僕は星野道夫さんのエッセイに、ガイアシンフォニイーの五番、ボブサムの話を思い出した。 クリギットインデイアンの彼はベトナム戦争後にアルチュウに成り心の病に犯されるのだが、アラスカにあるロシア人の墓地を壊しマンションを造る工事中に夜中に墓地に通っては壊された墓地を元に戻すことを繰り返す。
そのうちマンション建設は怖くなり中断される。
一方ボブサムは訓練を受けていないのにシャーマン的な力を獲得していくのである。
たかが二週間とりつかれたように此処を片付けた僕がシャーマン的な力を身に付けたわけではない。
今、兎に角感じていること。
其は間違いなく生活を代々積み重ねて生きてきて繋いで来たものには何かの大きな力が宿っていると言うこと。
最後に僕はお蔵から眉毛を生やした達磨を見つけた。
お蔵レストラン「幸徳さんの家」の入り口の石段に飾りながら、深々と礼をした。
イヤせざる終えなかったのだ。
このアラヤシキの浅い部分に広がる新薫種子と言われているモノが余りに欠落した見えない世界に、僕も含めた多くの人が救済を求めていたから。
そして新薫種子とは先祖を越えた広い意味での先祖が、生きてきた心の風景を 繋ぐことだと教えてくれたからである。
「幸徳さんの家」本当に有り難う。
この体験の積み重ねの先には何時も視覚の広角がパノラマに成り、聴覚は全ての音が倍音で聞こえ始めてくる。
生きることは仕事をしてお金を稼ぐだけではない。
其れでは僕らは必ず息詰まる。
僕らは多くのものから凄く純粋に深くを感じる事ができる。
今はお金を稼いでお金を使っていきる時間が多分殆どだ。
だからこそこのマネーで作られた世界は平面を網羅して一気に地球にグローバルの皮膜を作ってしまった。
今地球上に多い尽くされているサナギの皮膜を自らの手で風穴を開けるときが本当に迫っている。
選択は自分でするしかない。
ユートピアは何処にもない。
ユートピアとは「場」ではない。
「場」を選んでいるうちはユートピアには出逢えないであろう。
それは地底方向と宇宙方向に同時に触覚を伸ばすときに拓く世界である。
その触覚こそがアラヤシキだ。
一方は地底に向かう新薫種子。
もう一方は宇宙に向かう本有種子。
僕は以前まで此れを直線で捉えていた。
大きなミスだ。
そして其処にたどり着けたのが「幸徳さんの家」と言う生き物な事だけは確かである。
今自分は新薫種子を知ることで時計の針の中心を手にした。
此れからは思考を宇宙に向けても浮き上がり不安を覚えることは皆無であろう。
ましてやその僅かな軌道上に回る今の崩壊寸前の価値観に引っ張られることも其処から軌道を変えたのではなく高低の全てを網羅しているために不安に思うことさえもないのだろう。
此れは僕にとって踊ると言う回転すると言う事の本質に迫る体験に繋がった。
恥ずかしいのだが五十三歳にして僕の脳に今始めて、永遠に回る秒針がセットされた。
それは北極星にさえ届きそうな秒針だ。
後はしっかりと「分」と「時間」を刻み続けることだ。
それは永遠に回る。


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